礼拝説教

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東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二〇年 七月五日
 「主と結ばれる」 エフェソの信徒への手紙 二章 一一節~二二節

 現代社会においてほとんどの人が持っているものに資格というものがあります。資格と言ってもいろんなものがあります。運転免許が一番分かりやすいですが、小学校とか中学校とかの卒業証書も一種の資格です。もっと分かりやすいのが、戸籍つまり国に属しているという国民の証というのがあります。これがあるお陰で医療などの優遇措置が受けられますし、外国に住んでいても故郷に戸籍があれば様々な保証が受けられます。基本的に国民というのはそれだけで資格となります。
 それに日本国民であるという前提があるからこそ、義務教育の卒業証書が得られたり、運転免許が得られたりしますから、国に属すると言うことは、他の資格を得るために必要なもので、資格のベースとも言えるでしょう(1)
 資格と言うものを信仰として考えるならばどうでしょうか。信仰者である私達には何かしらの資格があるのか。それを考えてみましょう。
 まず洗礼を受けた人は、神様に対して信仰告白をして私は神様に属するという資格を得ます。国の法律的な意味ではそれは権利ではありませんが、信仰者は神様に属するもの。天の国の国籍をそこで得ます。信仰とは神の国の国籍と権利を持つものとなります。そしてもう一つ、この世界に属するものとして、教会員であるという資格も得ます(2)
 ではその資格を取るために必要なものは何でしょうか。本日の聖書箇所はそれについて書かれているところです。
 本日の聖書はエフェソの信徒への手紙です。聖書の後ろの地図を見ますと、アジア州、現在で言うところのトルコにある都市です(3)。ここはギリシア文化の影響がとても強いところで、ほぼギリシア人に近い人々が住む場所です。かつてパウロが伝道のために訪れ、ここで神様を伝えていきました。最初はその町に住むユダヤ人達がパウロの言葉を聞きにやってきましたが、教会が出来てからは、その中心はユダヤ人ではなくエフェソに住む現地の人たち、ギリシア人達に移っていったという特徴があります。
 そこで問題となったのが信仰のあり方です。元々キリスト教はユダヤ教の土台の上に作られたものなので、当初の教会員は全員ユダヤ教の人々でした。そのため最初の内はユダヤ人キリスト者の方が上で、異邦人キリスト者は下と見るような考え方になっていたようです。ですから最初の内はおそらく少ないユダヤ人キリスト者が他の信徒達を指導するような構図になっていたかと思われるのですが、やがてそういう規制がなくなっていき、全ての信徒が平等であるとされていきました。
 ですからこの教会は当初ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間ですれ違いがあり、それが対立になっていたようです。この手紙はそれを前提に書かれています。
 それが示されているのが最初の一一節で、「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」とあります。ユダヤ人キリスト者は割礼を受けていて、割礼を受けている方が偉いという風潮があったようです。
 一三節と一四節で「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」と書かれています。ここでパウロが言っているのは、あなた方異邦人が神様を知った時から、もうあなたたちは神の民になっているという事です。この時点で民族の壁や律法や割礼など一切関係はありません。神様の前ではユダヤ人も異邦人も関係なく、分け隔てなく救いに入る事が出来ると語ります。
 元々のユダヤ教において救いというのはユダヤ人にのみ与えられるものと考えられていました。神様に選ばれたユダヤという神の民こそが神様に愛される資格を持っていると考えていました。他の民族達はやがてユダヤ人に支配されるはずの、神様に愛されていない民族と考えています。更に彼らはそのような神に選ばれた民族が、神様から与えられた律法をきちんと守ってこそ、本当の救いがあるものと考えました。生まれと行いという二つが救われる条件になっていたのです。
 それに対してキリスト教は、その考えを否定します。救いに必要なのは生まれでもなければ行いでもありません。ましてや身分などと言う社会的な地位も関係ありません。全てのものが等しく救いに入る権利を持つと主張します。
 最初に私が言った資格というものなのですが、救いに入るための資格というのは基本的に全くありません。誰でも救われます。ただ「私はイエス様を信じます」と告白することこそが唯一の資格となります。資格と言うよりは誓いですね。心が神様と結びつくことによって、救いを得ます。大切なのは心のあり方だけです。
 ただしその心というのが問題です。私は一生イエス様を信じ続けるという覚悟が必要になるからです。この誓いとは、生きている限り信仰を全うする覚悟を持つことと言えるでしょう。
 その人が心から誓って、神様と結びつくならばあらゆる人に等しく救いを与える。それを可能にしたのがイエス様でした。一六節にこう書かれています。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」という言葉です。イエス様の十字架こそが全てを救う鍵でした。
 神の子イエス・キリストが自らの命を生け贄として献げられた時、全ての人類に等しく救いの機会が与えられたとするのです。
 一八節に「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」とあります。ユダヤ人だけでなく、あらゆる人々は神様の霊に結びつくことができる。そしてその霊に結ばれた者は等しく救いに預かるものにされていきます。私のために命を捨ててくださったイエス様を私は信じます。
 最初に言ったように、信仰において資格と言うものは存在しませんし、上下の位もありません。神様に結ばれる人は等しく救いに与る者なのです。
 神様の前で全ては平等。神様を信じるものに救いは与えられる。そのことを信じていきたいものです。
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