礼拝説教

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東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二一年 六月一三日 第二一九六号
 「罪に従わない」 ローマの信徒への手紙 六章一節~一一節

 先週役員会がありまして、そこでコロナ禍における伝道と言うことをお話ししました。コロナの中で人との接触を最低限度にする必要がある事から伝道というのは確かに困難です。しかし今だからこそ出来る伝道の方法もあるはずと、気持ちを切り替えることが大切だということです。現在この教会でも礼拝の配信は行っていますが、それをどう活かすかも伝道の一環です。例えば配信している礼拝の宣伝だとか、応援してくれる人を増やすとかの方法も、考えて然りでしょう。その辺を考えてみたいですね。
 その中で、大切なのは、教会に来て良かったと思ってもらえるような教会作りというのが大切ですね。また参加したい思っていただけるような教会を目指していきたいものです。
 それにはいろんな方法があるでしょう。暖かさや居心地の良さと言ったものを提供出来るようにすることも大切です。教会に来られた人それぞれの求めている事をしっかり受け止めていきましょう。でもその中で最も大切にしたいのは、ここに来ればイエス様と触れあえると思ってもらえること。これに尽きるのではないかと思います。
 イエス様と触れること、そして教会に来れば、必ずイエス様と触れ合い続けられるというのが更に重要です。一回触れるだけではなく、常に触れ続けることが大切です。常にと言うのは難しいので、継続的に触れ続けるということになりますか。
 それは私達がこのコロナ禍の中でも毎週礼拝を行う意義であり、皆さんが来られている理由とも言えるでしょう。
 ここに来ればイエス様と会えるということは、ここでイエス様が私を待っていてくださり、私の来ることを歓迎してくださるという事です。それは言い換えれば、私はここに私の居場所があると言うことになります。
 この居場所を見つけるというのは、私達の人生におけるテーマの一つでしょう。
 私達の多くは、「あなたはここにいて良いのです」「あなたにいて欲しい」ということを言われたいと願っていますし、そのような場所に腰を落ち着けることを常に願います。ですから自分の居場所を見つけること、あるいは自分の居場所を作ることを私達は人生の目標としていきます。教会に居場所を見つけられた人は、ある意味人生のテーマの一つを果たしたと言っても良いでしょう。
 しかし、居場所というのは単に居心地の良いだけの場所ではありません。それを維持するためには必ず努力が必要となります。教会に居場所を作るためには当然努力が必要となります。
 信仰にも努力が必要なの?と思われる方もおられるかもしれませんね。でも実際は必要です。ではどのような努力が必要なのでしょうか?
 これが例えば仕事であれば、その人なりの成果を出す必要があります。仕事が出来ることとか、人との折衝を上手く持って行くとか、多方面の努力を重ねて自分には居場所がある事を確認していきます。家族とかの人間関係にあってもお互いの努力の結果で一緒にいられるということもありますね。
 それは一般生活をしているとよく分かるのですが、教会における努力とは一体何なのか。そこが問題です。実は本日の聖書箇所にそれが書かれています。
 まず私達がすべき努力というのは、一節と二節に示されています。ここには「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」と書かれています。
 私達がなすべき努力というのは、罪に生きないことです。放っておくと私達は罪の方向へと行ってしまうため、努力して罪から離れることが重要になります。三節を見ますと洗礼を受けていることが前提になっていますが、あえてこれをイエス様と出会ったときと考えた方が良いでしょう(1)
 六節を見ますと「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」とあります。イエス様と出会ったその時、私達は新しく生まれます。それはイエス様の十字架を受け入れたことによって、自分自身のこれまでの罪をイエス様が消してくださったから、罪がない体として生まれ変わったということです。
 では罪が消えたら、それで終わりなのかと言いますと、そうではありません。そこからが努力の始まりとなります。それは罪を犯さない努力です。
 それでは罪を犯さない生き方とはどういう生き方なのでしょうか。
 これに関しては、いろんな説があります。例えばキリスト教原理主義者と言われる人たちは、罪を犯さない努力として、いろんな規則を作ったりしますし、良いことをすることで、罪を帳消しにする方法という考え方もあります(2)
 しかし私達が考えるべき事は、もう少し違います。先週アダムの話をしましたが、アダムは罪を犯したことによってエデンの園を追放されてしまいました。これはアダムが罪を犯したことによって、神様はアダムを遠ざけました。罪を犯すことと神様から引き離されることが一セットと考えるならば、神様から離れることが罪となるという意味です。
 キリスト教の考え方では、一度神様と出会い、罪を拭っていただいた人が犯す罪とは、神様から離れてしまうことです。これが一番の罪です。神様から離れるとはつまり神様のことを忘れてしまうことです。
 私達にとっての最も重い罪とは神様から離れること。言い換えればイエス様のことを忘れてしまうことです。
 キリスト教というものを考えるに、罪というのは一般的な意味とは違うのです。勿論私達は社会的な人間なので、一般の法律に従って生きねばなりませんが、その上で、イエス様を忘れずにいると言うこと、イエス様と出会おうとすることが加えられます。
 つまり、私達にとって努力すべき事とは、イエス様から離れないでいると言うことです。それはつまり、イエス様のことを考えることが最も重要なのです。
 私達は自分の生活を持っていますから、基本的には自分の事を考えていますし、その間は神様のことを覚えていません。常に思い出すことは無理です。でも一日の中で、あるいは一週間の中で、間違いなくこの時、神様のことを思っているときというのがある限り、私達は罪を犯さずに済みます。正確に言えば、神様と出会うことによって罪は消してもらえます。だからこそ、私達は定期的に神様と出会う必要があるのです。
 最初に言いましたが、教会で大切なのは、ここに来ればイエス様と出会えるということです。これによって私達は罪を犯さずに済むのですから。礼拝がイエス様と出会う場です。つまり、礼拝とは、私達が罪を起こさずにいられる場所ということになりますね。
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