礼拝説教

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一九年 二月一〇日
 「死者を生き返らせる」 ヨハネによる福音書 一一章三八節~四四節

 福音書にはいくつもの奇跡物語が書かれています。イエス様が人々に多くの奇跡を見せて、神様の力を示しています。
 それらの奇跡の中で最大のものとは何かと聞かれたら、答えは明確です。それは十字架の死と復活であると答えます。教会における礼拝説教はすべてこの十字架の死と復活について語るものであると言われるほどです。それだけ重要です。
 それでは二番目に偉大な奇跡とは何か?と言われたらどうでしょうか?
 恐らくそれは死んだ人を生き返らせるという奇跡となるかと思います。福音書にはいくつかの死者を生き返らせることが語られていますが、本日のラザロが最も有名なものでしょう。人が亡くなって四日も経ってから生き返るのですから、普通あり得ない話になりますからね。
 このテーマはとても重要なので、同じ箇所を今回と来週の二回に分けてお話ししたいと思います。
 さて皆さんに一つ質問します。一度死んだ人が生き返ることはまずありませんが、心臓が一度止まった人の心臓が再び動き出し、生き返ることが低い確率で起こることがあります。それをなんと言うでしょうか?
 ほとんどの人がこれを「復活」と呼ぶかと思います。
 一般的な意味ではこれは正しい言い方となります。しかしながら教会の用語では、こういうのは復活という言葉を使いません。実は復活という言葉は特別なもので、この場合はむしろ蘇生という言葉を用います。
 復活と蘇生がどう違うのでしょう。
 あくまでキリスト教会限定ですが、復活という言葉は、特別な意味があります。キリスト教で言うところの復活というのは「死に打ち勝つ」という意味となります。微妙に「生き返る」というのとは違っています。正確に言うなら「生き返る」ことを指すのではなく、「死ななくなる」と言う意味で使われます。キリスト教の用語では、永遠の命をいただくことを「復活」と呼ぶのです。対して死んだ人が再び目を開けるということは、やがて時が来ればその人は再び亡くなります。ですから、これは死ななくなるわけではありません。それを蘇生と呼んでいます。
 ここでイエス様が行ったことは、死者を蘇らせることですから、復活ではなく蘇生の方です。それでも凄いことには違いありません。イエス様は命というものを自在に扱えると言うことを示すのですから。
 前回、前々回の二回を通しまして、ラザロの二人のお姉さんであるマルタとマリアの姉妹とイエス様の会話についてお話ししました。マルタの方は立派に悲しみを乗り越える姿が、マリアは悲しみの中にあり、そんな二人にイエス様が慰めを与えていました。
 そんな二人が涙を流す姿を見たイエス様はラザロの墓に向かいます。三八節と三九節を見ますと、「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。」と描かれています。
 日本の場合、人が亡くなったら基本的に火葬され、骨になってしまいます。昔だったら土葬で棺に入れられて土に埋められますが、ユダヤの習慣はちょっと違います。ユダヤにはいくつもの洞窟があり、そこを共同墓地にして、亡くなった人はその中に収めることになっています。ですから人が亡くなっても、しばらくは洞窟の中に横たえ、やがて骨になった時にひとまとめにされるという埋葬方法を用いていました。ですから、死後四日ではまだ洞窟の中に横たわった状態です。
 イエス様が活動しておられたのは中東ですから、気温が高いですし、今のようなドライアイスとかもありませんから、当然肉体は保存出来るようなものではありません。マルタが「においます」というのは、最大限の配慮です。
 それでもイエス様は人々に石を取り除くよう命じ、それが取り除かれた時に祈りを捧げました。四一節以降にその祈りが描かれています。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」というものですが、この祈りはちょっと不思議です。
 祈りというのは普通「~してください」と願うものなのですが、ここでイエス様は「私の願いを聞き入れて下さって感謝します」と祈っています。墓を明けた瞬間に、もう奇跡が起こっていることを確信しています。
 更に祈りの最後に「彼らに信じさせるためです」と祈っています。
 これはイエス様が何故この奇跡を行ったのかを示す言葉です。ここでイエス様がラザロを甦らせたと言うことは、人の命を自在に扱える力があることを示しています。それを人々に知ってもらうためであったと考える事が出来るでしょう。
 イエス様は人の命を与える事が出来る。ならばご自分の命が失われた時も、再び命を得て甦ることが出来る事をここで示しました。言い換えるならばこれは弟子達に対してイエス様が与えた最後のヒントです。
 私の十字架を見た時、この光景を思い出し、必ず甦ると信じられるかどうか。それが問われていたのです。単純にラザロを生き返らせただけの問題ではなく、これはイエス様の十字架につながる問題なのです。
 これを通してイエス様はここに居合わせた弟子達に、「あなた方は最後まで私を信じ切ることが出来るのか?」という問いかけをしていることになります。
 十字架の出来事を知った時、あなた方は逃げることになる。でも、そこで最後に踏みとどまって、私を信じ切れるかどうか。その事を問いかけている部分ですね。
 これは常に試練を受け続けている私たちに対しての問いかけでもあります。あなたは心の底からイエス様を信じ切ることが出来ていますか?
 言い換えるならば、イエス様の力で、私は命を与えられていることを信じられますか?という問いとなるでしょう。命与えられていることを信じ、喜びをもって毎日過ごせていますか?常に問われていることです。
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