礼拝説教

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一八年 一〇月 二一日
 「イエスこそ救い主」 ヨハネによる福音書 九章 三五節~四一節

 皆さんはシンボルという言葉をご存じでしょうか。これはその人そのものではなく、その人を示す記号のようなものと考えてください。そのものではなくイメージするものと言うべきでしょうか。例えば郵便局を表すシンボルは郵便番号の前の記号とか。福沢諭吉と言ったら一万円札とか。人や物そのものではなく、言い換えるものです。
 キリスト教会のシンボルと言ったら言うまでもなく十字架です。地図でも教会は十字架が書かれますし、教会にはほぼ確実に屋根の上に十字架が掲げられています。シンボルとしては大変分かりやすいものです。建物の上や地図上に十字架があると、これは教会だと分かります。
 ではイエス様を示すシンボルというと何を思い浮かべるでしょうか?教会と同じ十字架もシンボルになります。十字架は教会だけでなくイエス様ご自身を表すシンボルでもあります。他にもイエス様を示す記号というのはあります。例えばそれは小羊というのがあります。ヨハネによる福音書一章二九節にはイエス様を一目見た洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っています。羊というのも確かにイエス様のシンボルです。他に茨の冠というのもあります。イエス様が十字架に駆けられた際、頭にかぶせられたものを表します。
 そしてもう一つ。魚というものがあるのをご存じでしょうか?イエス様を示すのに何故魚?と思われるかも知れませんが、実は魚というのは最も純粋に信仰を言い表すものだったりします。
 ギリシア語で魚のことはイクトゥスと言うのですが、これはギリシア語でイオタ(Ι)、カイ(Χ)、シータ(Θ)、ユプシロン(Υ)、シグマ(Σ)を合わせた文字です。この順番は「イエスース・クリストゥース・テオス・フィオウ・ソーテル」という頭文字がぴったりはまります。これはギリシア語で「イエス・キリストは、神の子、救い主です」という意味となります。その言葉の頭文字を合わせるとイクトゥス。魚という文字の中に、信仰告白が隠されているということで、初期のキリスト教ではこれをキリスト教のシンボルにしていました。
 この言葉。「イエス・キリストは、神の子、救い主」というのは、最も最初の教会での信仰の原点を表す言葉で、最初のキリスト教の信仰告白の言葉でした。
 つまりキリスト教信仰の原点とは、イエス様が神の子であり、救世主であるということを信じる事から始まったのです。とてもシンプルに、このことを信じる事が出来れば、あなたはキリスト教信徒になれますよ。というのがこれです。これを信じますと言って、洗礼を受けて晴れて信徒になる訳です。
 ですから洗礼を受けるに当たって、告白が大切で、しかもその告白をずっと持ち続けていくことが大切です。
 本日の聖書箇所は九章の終わり。イエス様に目を癒やしていただいた人が、再びイエス様と出会うという箇所となります。これまで九章の中、彼はファリサイ派の人たちに責められ、イエス様を偽物と言いなさいと迫られながら、それでも、イエス様は神様から使わされた人ですと、言い続けました。その結果、彼は追い出されてしまいます。
 ある意味、イエス様と関わったために迫害を受けてしまった人物とも言えますが、どんなに迫害を受けようとも、自分の目を開いてくださったイエス様を信じ続けた立派な信仰者の鏡のような人とも言えます。
 彼の信仰の原点を考えてみましょう。
 彼にとって目が見えないと言う事は何よりも悲しいことです。他の人が出来る事が自分には出来ません。そんな自分の目を見えるようにしてくださったのがイエス様です。彼にはイエス様に対する感謝の心しかありません。
 ですから、他の人がなんと言おうとも、彼は、私はイエス様によって救われたのだから、イエス様を信じ続けるという思いを持ち続けていきました。
 先週の聖書箇所の最後の三四節には、彼はファリサイ派によって追い出されたと書かれています。これは単純に家から追い出されるとかではなく、ファリサイ派の共同体から追い出されるという意味です。共同体から追い出されると言う事は大変な事でしたが、彼は決してそれに後悔していなかったようです。
 本日の聖書箇所を見てみますと、最初に、彼が追い出されたと言う事を聞いたイエス様はわざわざ彼に会いに来ています。そこでイエス様は彼にねぎらいの言葉をかけた訳ではなく、ただ「あなたは人の子を信じるか」とだけ言ったと書かれています。
 もう少しアフターケアというか、この人物のことを考えてあげても良かったかも知れませんが、イエス様のこの言葉は大変重要な言葉です。
 彼は人の圧力に負けずに、イエス様を信じることを貫きました。彼にとって他に何が必要だったのかと言いますと、イエス様ご自身の前で信仰を言い表すことでした。
 これまで彼が「イエス様を信じます」と言ったのは、ファリサイ派の人たちの前ででした。決してそこにイエス様がおられた訳ではありません。しかしここでイエス様が現れ、イエス様の目の前で「私はあなたを信じます」と跪くことが出来ました。
 ここは信仰の原点というものを感じさせられる箇所です。先ほど言ったイクトゥスはシンプルにイエス様の事を言い表しているのですが、大切なのは、イエス様の目の前でそれを告白していますか?ということです。
 「私にとって、イエス・キリストは神の子、救い主」。この言葉をイエス様ご自身の前で言えますか?という問いかけです。
 先週も言いましたが、私たちの礼拝の中には使徒信条という告白文があります。ここには「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」という言葉があるのですが、礼拝でこれを語るというのは、この場におられるイエス様ご自身に向かって語る言葉です。私の心からの思いをもって、イエス様の前に信仰を告白しますという意味です。
 私はイエス様の事をこれまで信じてきましたし、これからも信じていきます。礼拝という空間の中で、イエス様を前にこれをはっきりと宣言することが、私たちの信仰にとってとても大切な事なのです。
 今私たちは礼拝の中で、目では見えないけどここにおられるイエス様に告白しました。やがて私たちは目で見られるイエス様と出会うことになります。この時こそ、「私はあなたを信じてきました。今も心からあなたを信じます」と言えるようになることが、信仰の到達地点でもあります。
 この人物が最後にイエス様と出会って信仰を告白出来たのは、私たち自身の来たるべきゴールを暗示している部分とも言えます。
 最後に「イエス様。私はあなたを信じます」そう言えるようになりたいものです。
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