礼拝説教

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一八年 一二月 九日
 「主の元へ来なさい」 イザヤ書五五章 一節~一一節

 本日アドベントの第二週を迎えました。クランツの蝋燭も二本目がともり、あと二週間でクリスマスというのが分かります。本日は皆さんと共にちらし配りを行いましょう。
 ちらし配りというのも、考えてみると結構な労力がかかります。でもこれも見方を変えると、大きな喜びでもあります。なぜならば、人々を教会に招くことが出来るというのは、神様に対する最高の奉仕ですし、また私たちの喜びでもあるからです。
 このような奉仕を含めて教会の役割というのはたくさんあります。その役割の中心とは、人々にイエス様のことを知ってもらうためです。人を招くことこそが教会の使命です。クリスマスというのは、その本来の役割をおおっぴらに出来ると言う事でもありますから、とてもありがたいことですね。神様に喜んでいただくためにも、祈りを込めて人々を招いていきましょう。
 人々を招くのは何故かと言いますと、とても単純に言いますと、イエス様のところに来ると良いことがあると信じるからです。
 本日の聖書箇所、イザヤ書五五章は、その良いものが神様から与えられる事を告げた箇所になっています。
 一節を読みますと、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」とあります。
 ここに来れば、多くの恵みを与えようという約束です。私のところに来るならば、あなた方には無料で水と、葡萄酒と乳を与えようという約束となります。
 ここに描かれている水や葡萄酒というのは物理的なものではなく、比喩として考えられます。では、何が与えられ、そしてどうすればそれを受け取ることが出来るのかと言う事を語ったのが本日の聖書箇所となります。
 まず何が与えられたのかという点ですが、ここに出ているのは、一一節に書かれています。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」という言葉の中に、「わたしの口から出るわたしの言葉」と書かれています。ここに書かれているのは、神様から与えられる言葉となっているのです。
 神様から与えられる御言葉は、単なる言葉ではなく、そのまま救いをもたらす力であるとされているのです。神様の言葉が地上にやってきて、その御言葉を受け取る人に救いを与えようとされています。三節を見ますと、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」ということが書かれています。
 神様の御言葉を受け入れ、それに聞き従えば、救いを与えよう。という結論となります。
 聖書に書かれている救いというのは実に単純です。神様の御言葉を聞き、それを実践すれば与えられるものなのです。
 単純ですが、では具体的にどうすれば良いのでしょう。
 まず神の御言葉とは何を意味するのでしょうか。
 選ばれた人だけが受け取れた、直接神様から与えられた預言の事でしょうか。神様から啓示を与えられた人なんて、ほんの限られた人しかいませんから、それでは救われる人はほとんどいなくなってしまいます。
 では聖書に書かれた言葉でしょうか。それはわかりやすいです。皆さんがお持ちの聖書は、神様の御言葉が書かれています。ですからこの聖書をどうにかすれば私の救いになるかもしれません。どうにかするっていい加減な言葉ですが、聖書そのものには魔法とかの力はありません。単なる本です。聖書から力を引き出さないと救いには与れませんので、その力を引き出す方法を考えねばなりません。
 そのために、聖書に書かれていることをそのまま行いに変えれば良いのでしょうか。そうすれば救いが来るのでしょうか。
 ここまで私が話をしてきて、皆さんもお気づきになったかもしれません。イエス様が活動していた時、イエス様がファリサイ派の人々に話していたことは、そう言う事なのです。ファリサイ派の人々は、聖書の言葉に救いがあることを信じ、そこに書かれていることを一字一句間違えないように実践しようとしていました。それはつまり、聖書から神様の力を引き出そうとしてのことであり、それが救いになると考えていたのです。
 ただ、これには大きな問題があります。聖書をひたすら守ることによって救われると言うならば、どれだけ聖書の言葉を守ったとしても、救われるのは聖書の言葉を守った人だけです。こういう人は自分が救われることだけで手一杯で、他の人たちを見ません。自分さえ良ければそれでいいという考え方になってしまいます。そんな人たちのことを、イエス様は救われるとは言いませんでした。
 では、神の言葉とは何であり、それを実践するとはどういうことでしょうか。
 今私たちはヨハネによる福音書の連続講解説教をしていますが、そのヨハネによる福音書の一番最初の一章一節の言葉を思い出してみたいと思います。そこに書かれているのは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」というものです。謎めいた言葉ですが、神の御言葉とは、一人の人物を示すと言う事です。誰かと言いますと、もちろんそれこそがイエス・キリストそのものです。イエス様の存在は神様の御言葉そのものであるということなのですね。
 そう考えるならば、御言葉を行うと言う事も分かってきます。神の言葉であるイエス様を救い主であると信じることです。御言葉の実践というのは実はそれだけに過ぎません。イエス様を信じること。言い換えれば、イエス様を愛すること。それが救いへの道です。
 基本的にはそれだけで良いのです。ただ、もう一つ言うならば、イエス様を目標としなさい。という事を付け加える必要があります。
 イエス様はこの世界の人々を救うためにこの世界に来られた方です。それは、この世界の人々すべてを愛しておられ、すべての人々を救うためにこそやってきています。
 イエス様がすべての人を愛されたように、私たちもまた人を愛しましょう。というのが実践になります。
 イエス様はそれを伝えるため、そしてそれを実践するためにこの世界に来られ、人々を愛し、自ら十字架につけられ、すべての人の命を救われました。
 そう考えて本日の聖書を読み返しますと、私たちのために御子イエス・キリストが与えられました。そのことを喜びましょう。イエス様を心から信じることが、神様に近づくことであるということになります。
 イエス様を知り、イエス様を信じること。私たちの信仰の中心はそこにあります。そしてそんなイエス様の素晴らしさを伝えるために教会があります。イエス様が来てくださったことをお祝いするクリスマス。これを人々をもっと笑顔にするものにしていきたいものです。

これはスマホ(タブレット)用ページです。
トップページ
 

電話でのお問い合わせはTEL.03-3894-7565

〒116-0002 東京都荒川区荒川5-47-4