礼拝説教

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東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一九年 一〇月 二〇日
ヨハネによる福音書一七章六節~一九節 「悪からお守りください」

 私は現在様々な教派の牧師達が中心になって作っているカウンセリングの勉強会に参加しています。先週も勉強会がありまして、その中の学びで言葉の大切さというものを話し合いました。人にはそれぞれ出してほしくない話題というものがあって、会話の中でその話題が出ると、途端に拒否反応が起こってしまうと言うものがあります。普通に和やかに喋っているのに、特定の言が出た途端怒り出す人が私の知り合いにもいますが、割とこういう人は多いようです。カウンセリングでは比較的起こりやすいことでもありますので、そう言った拒否反応が出た場合の対処法ということについて学びつつ話し合いました。いろいろな意見が出ましたが、その中で言葉を大切に用いることが重要だという話で落ち着きました。
実生活を送る上でも言葉というのは慎重に扱う必要があります。人間関係で心ない言葉を使われて深く傷つくということも多いですし、一方では自分でも人を傷つけるような言葉を使っている場合があります。言葉で傷つけられた場合、そのことをずっと覚えているものですが、傷つく言葉を言った側はすぐに忘れてしまうことが多く、それで人間関係が崩れることも数多くあります。言葉には注意しましょう。
 言葉というのはこの世に溢れています。コミュニケーションの手段として言葉は発達しましたが、それはやがて文章となって、新聞や小説などの活字に、現代ではスマホの画面に映し出されていますので、言葉はますます増えていますが、その中で本当に大切な言葉を選び取る能力というのがこれからますます増えていくのではないかと思います。
 特にキリスト教会は言葉を大切にしなければなりません。
 ただ、教会が配慮する言葉は単純に人同士の会話の言葉だけではありません。もちろんそれも大切ですが、教会が本来伝えるべき言葉はもっと重要なものです。
 聖書では、これからイエス様は十字架へと向かうことになります。
 何故そのような事態になったかというと、イエス様がユダヤ人に対して暴言を吐いたということがあります。ユダヤ人達にとっては聞きたくない言葉、聞いたら怒るような言葉を平気で使って彼らを傷つけてしまったからです。いわばイエス様は言葉で命を捨ててしまったという事になります。
 ではイエス様は言葉に無頓着だったのかというと、全くそうではありません。イエス様はユダヤ人達を怒らせるためにわざと挑発的な言葉を用いましたし、そもそも十字架に付くことを目的としていましたから、敢えてそのような言葉を用いていたことが分かります。
 むしろイエス様は何より言葉の重要性を知っていた方だったかと思います。
 何故なら、イエス様ご自身が言葉そのものだからです。
 改めてヨハネによる福音書一章一節にもどって聖書を読んでみましょう。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあります。分かるような分からないような聖句ですが、これを解説しますと、原初、何もない世界には二つのものだけが存在しました。一つは神様ご本人。もう一つは神様が発した言葉です。神様が言葉を発することで天地創造がなされました。あらゆるものを作ったのが神様の言葉だったのです。その神様の言葉というのがイエス様の本体だったと書かれています。その神の言葉が肉を纏うことによって人間の姿になったとされています。イエス様の誕生を「受肉」と言うことがありますが、これは神様の言葉が人としての姿を取るという意味で用いられます。
 イエス様ご自身が神の言葉であるため、イエス様の伝える言葉は神の言葉そのものだとされます。
 ただし、イエス様はその神の言葉というのを特別なものとして用いました。一般に人が話す言葉とは異なります。本日の聖書箇所八節に「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」とお話しになっています。イエス様は他の人たちとは異なる言葉で弟子達に特別な言を伝えていたことが分かります。
 ではその特別な言とは一体何でしょうか。
 それは口に出して言う言葉ではありません。心からの告白です。言い換えると、「私は神様を信じます」という心。それが特別な言です。神様と心が結びつくことによって、弟子達は特別な言を受け取ったという事になります。心からの信仰告白こそが人間の言語を超え、神様と人をつなぐ重要な言葉になるのです。
 これはこの世の言葉では無いため、普通の人には理解出来ません。そしてそれが理解出来ない人にとっては憎むべきものとなりました。一四節に「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」とあるとおりです。
 直接イエス様によって神の言葉が与えられた弟子達は、この時は全く自覚がありませんでしたが、やがてペンテコステを迎え、聖霊を身に受けた時、イエス様からその言葉を受けていたことに気づくことになります。
 イエス様はやがて弟子達が成長し、今度は彼らが神の言葉を伝える存在になることを知っていて、彼らのために祈っています。一五節以下です。
 神の言葉であるイエス様から直接言葉をいただいた弟子達は、彼ら自身が神の言葉を伝えるようになっていきます。それが教会の誕生へとつながっていくのです。そしてその言葉を受け継いだ者達が教会から新たな言葉を発信していくことになります。信仰告白を行い、心が神様と結びついたものは、その特別な言葉を用いることが出来るものとなり、教会は神の言葉を伝えるためのものになっていくのです。
 では、神の言葉というのを改めて考えてみましょう。聖書に書かれている文字も又神の言葉です。私たちが歌っている讃美歌も、祈りも、あるいは礼拝の中にある沈黙の時も、やっぱり神の言葉になっています。耳で入ってくるものもあります。目から入るものもあります。あるいは雰囲気で感じるものもあります。
 それらは私たちの心と結びつき会うことによって、神の言葉になっていくのです。聖書を読んで神の言葉を読むこともあります。礼拝の中で神の言葉を聞くこともあります。体で感じることもあります。それらは私たちが心で聞くようにと神様が用意してくださっているものです。
 それを心で受け止めて、生きる力に変えるのが信仰というものです。私たちは神の言葉と共に生きていきます。その喜びを胸に歩んでいきましょう。
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