礼拝説教

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一九年 六月一六日
「主の行く道」ヨハネによる福音書 一四章 一節~四節

 先週はペンテコステ礼拝でした。弟子達の上に聖霊が降り、そこから教会が誕生したという出来事でした。この出来事は、それまでイエス様がこの地上でなさっていた伝道の働きを弟子達にお任せになったということでもあります。
 イエス様がこの地上でいくら神の国のことを伝えたとしても物理的な限界がありますが、弟子達は増えれば増えるほど世界中に伝道が可能になります。ですからイエス様は弟子達に地上をお任せすることにしました。恐らくこれは最初から決まっていたことなのでしょう。
 弟子達に後を託してイエス様は天に帰られました。この出来事は使徒言行録の一章の六節以下で描かれています。その九節には「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と描かれています。この出来事を昇天と言います。
 ちなみにキリスト教の葬儀に出た方はおわかりでしょうが、亡くなられた方を「召天された」と言いますが、おなじ「しょうてん」でもイエス様の場合と人では異なります。イエス様の場合、「天に昇る」と書いて「昇天」ですが、人の場合、「天に召される」と書いて「召天」です。違いは、自分で天に昇るのか、誰かから招かれて天に昇るのかの違いです。自分で登ることが出来るのはただお一人イエス様だけですから、「昇天」と言えるのはイエス様にだけです。
 そしてご自分の力で点に戻られたイエス様ですが、天に帰られたのには二つの理由がありました。
 一つは先ほど言ったように、この地上は聖霊を受けた弟子達に任せておけるという判断をされたことです。弟子達によってイエス様が伝えられるとは、この地上に聖霊が広まると言うことです。聖霊とは神様の力。これによってイエス様は天にあって地上すべてを聖霊を通してその力を与える事が出来るようになりました。私たちの中にある聖霊を通して、イエス様の力が与えられ続けているのです。イエス様は姿が見えませんが、聖霊が与えられている人に対しては、常に聖霊を通して力を与えて下さいます。
 聖霊を与えられた人がいるなら、イエス様は地上すべての場所に力を及ぼすことが出来ます。これが出来るようになったため、地上での活動は終わっても良かったのです。
 ただ、それでイエス様のすべての使命が終わったのかというと、そうではありません。大切な使命があります。その使命を果たすためにイエス様は天に帰られたのです。
 その使命について語っているのが本日の聖書箇所となります。
 ここはいわゆる最後の晩餐の時です。イエス様は弟子達に、私はこれからいなくなるが、悲しむことはないと語りつつ、ご自分がいなくなった後の心得について語っています。
 私がいなくなってしまっても、悲しむことはない。最初にイエス様はそう語ります。これは私たちにも共通することですが、イエス様が天に帰られてしまったとしても、いなくなった訳ではありません。目には見えなくなるかもしれませんが、聖霊を通して私たちを見て下さっていますし、私たちの中に聖霊が生きているならば、そこからイエス様の力が与えられています。イエス様が近くにいて下さると思えば、そこから命が与えられています。
 これは今、生きている私たちに対してイエス様が見守っていて下さると言うことを意味しますが、もう一つ重要な任務があります。それは私たちがやがて行くことになる神の国についてです。
 二節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」とお話しになっています。「父の家」とは、イエス様にとっての父、つまり神様がおられる場所ですから、そこが神の国となります。そこには「住むところがたくさんある」と前置きした上で、その場所がもしもなかった場合、それを用意しに行くと言っています。
 神様がおられる場所、神の国ですが、ここに入るには本当に大変です。イエス様の活動されていた当時のユダヤ教での考えでは、天の国に入れる資格は二つしかないとされます。
 一つは、人が完全に心から悪の心を消し去った場合。完全なる聖人君子となれば、自分の力で神の国に入る事が出来たと考えられています。
 しかし、人間の心には最初の人間であるアダムとエバが犯した罪があり、それは人の心と結びついているため、それを取り除くのは不可能です。はっきり言ってしまえば、自分の力で神の国には入れる人は誰もいないと言うことです。
 もう一つの方法は、神様の赦しを受けて神の国に入ることです。たとえ心に罪を持った人でも、神様が「あなたは入って良いよ」と許可を与えれば入る事が出来ます。
 問題はイエス様の時代までに、神様が許可を与えた人がどれだけいたかということです。実は分かりません。数万人かもしれませんし、数百人かもしれません、あるいは数人かもしれません。私たちには判断出来ません。人が生きていた何千年もの間、天の国には入れた人はほんの僅かでしかありません。
 イエス様がこの地上に来られたのは、天の国を開放して、すべての人を招き入れるためでした。そのために神様からの許可を得るため、罪の赦しを与えるためにイエス様の十字架があるのです。イエス様の十字架を信じる人は、赦しが与えられて神の国に入れるようになります。十字架以降、ほとんど誰もいなかった天の国に多量の人たちが入ってくることになるということになります。
 その場所を用意するため、イエス様は一度天に戻るとおっしゃっているのです。すべての人が入れるように天の国を整えること。それがイエス様の使命です。
 三節を見ますと、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と書かれています。神の国にすべての人を受け入れる用意ができあがった時に、イエス様は再びこの地上に現れ、神の国を開放して下さるという意味になります。
 それこそがいわゆる最後の審判、終末の出来事です。
 天に帰られたイエス様は、今、私たちに聖霊を与えて下さっているのと共に、天の国で人々を迎え入れるための用意をしておられるという事になりますね。その時間がまだかかっているため、最後の審判は未だに来ていません。
 改めて一節の「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」という言葉は二つの意味を持つことが分かります。イエス様が見えなくなっても、ちゃんとみんなを見ていると言うことと、あなたの来る場所を用意しておくから、だから安心しなさいという意味と。
 イエス様を信じることとは、生きる事と死ぬことに対して安心をもって生きる事が出来ると言うことです。
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