礼拝説教

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東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二〇年 一月一二日
 「弟子であること」 ヨハネによる福音書 一八章 二五節~二七節

 新年も第二週となり、説教の方も再びヨハネによる福音書の講解説教に戻していくことになりました。ヨハネによる福音書も残り三章少しとなります。
 皆さんは礼拝には何が絶対に必要なのか、そのことを考えたことがあるでしょうか?
 これを突き詰めて考えてみますと、カトリックとプロテスタントで少し異なりますが、プロテスタントの場合では最低限これだけは必要というのは、聖書を読むことと、信仰告白を行うこと、それに加えて定期的に聖餐を受けることとなるかと思います。聖書によって神様の御言葉に触れ、信仰告白によって「私は神様を信じます」と宣言すること。その二つがあれば礼拝は最低限保つことができます。聖書をみんなで読んで、使徒信条をみんなで言えば、それで礼拝は終わり。一〇分もかかりません。あとは年に一回程度でも聖餐があれば、最低限これで礼拝は守られることになります。ただし、これは大変味気がない上に、信仰上の成長が期待できません。神様の方向に向かって歩いているという実感は、それだけでは得られにくいものです。
 次に重要なのが何かというと、説教になるかと思います。プロテスタント教会の根本は聖書ですが、聖書はただ読むだけではなく、その内容を理解することで初めて力を持つと考えます。単純に聖書を読むだけなら、書かれているものをただ口で言っているだけです。そこに何が書かれているのかを考えると言うことが重要になる訳です。聖書それ自体が力を持つのではありません。その内容を理解して初めて聖書は聖なる書物になるのです。
 その理解のために必要なのが説教と言う事になりますから、必ず礼拝の中には説教が入っているものです。
 しかしながら実は礼拝の中で誰かが話をするのは説教以外にもあります。例えば講義です。感情を交えず、聖書の研究結果をお伝えすることです。あくまで研究結果をお話しする方法です。正確に聖書の意味を知るという意味ではこれも礼拝の中で話されることがあります。そしてその結果に、それは神様の言葉として意味を与えて語ることが説教と言います。他にも、牧師以外の人が説教に近いことをする場合、それを奨励と呼びます。牧師の説教と変わりがないものですが、例えばそれが信仰者でなかったり、あるいは信徒の方でも行えるもので、それを多くの教会では説教ではなく奨励という言葉を用いることが多いです。
 そしてもう一つ、証というのがあります。これはお話しをする人が神様とどう関係を持っているのかをお話しすることです。自分の過去、もしくは現在、神様が私にどのように働きかけてくださっているのか、そしてそんな神様に対して私はどう応えているのかを話すことです。聖書を元にするのではなく、自分の経験を元にするところに大きな特徴があります。
 私が赴任してからこの教会では礼拝の中で証を行っていませんが、その人の信仰を理解するため、そして自分自身を振り返るために証というのも大切なことです。
 本日はその証についてのお話しをさせていただきます。
 本日読んでいただきました聖書は、有名な話で、イエス様の一番弟子と言われたペトロがイエス様のことを知らないと言ってしまう話です。一三章三七節に書かれていますが、先の最後の晩餐の席でペトロはイエス様に向かって「あなたのためなら命を捨てます」と言っていたペトロが、本日の聖書箇所にあるように、イエス様が捕まった後で「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言われた際、「違う」と言ってしまいました。
 イエス様の一番弟子を名乗る人がこんなことを言ってしまうなんて、弟子の風上にも置けない人と言われてもおかしくありません。
 ペトロにとってもそれは恥の歴史でしょう。特にイエス様の復活後、教会を作り、その指導者となったペトロです。こんな悪い過去があったというのはイメージ的にはあまり良くありません。
 しかし、このペトロの裏切りは四つの福音書すべてに書かれています。とても有名な話なのです。では何故そんなに有名なのか。実はこれはペトロ自身がこれについて積極的に語ってきたからだと言われています。
 普通考えたら、こんな恥の歴史は言いたくないものです。特にペトロはイエス様が天に帰ってからの教会のリーダーです。そんな人がイエス様を裏切った過去を語るのは恥そのもの。普通だったらそんなことを話すリーダーはいません。しかし敢えてそれを語ります。それにはちゃんとした理由が存在します。
 それはペトロは、「こんな私でもイエス様によって救われているのだ」という事を語っていたのだと思われるからです。
 先ほどペトロの裏切りは恥であると言いましたが、そこまでの恥ずかしいことをイエス様にしてしまったとしても、やはりイエス様はそれを赦してくださるという確信があってのことです。私はこれだけの罪を犯してしまったけど、それでもイエス様は私を赦してくださった。それはどんなにか素晴らしいことなのか。ペトロが話すのは自分自身の裏切りの罪ではなく、イエス様を信じる人を、イエス様は必ず救ってくださるという確信でした。だからこそ、恥となるようなことを口にすることができたと考えられます。
 これはペトロとイエス様の間にある出来事です。そしてペトロの思いが詰まった言葉になります。
 証というのは私とイエス様の関係について語ることです。それはこれまで過ごしてきた信仰生活の中でイエス様と出会ったこと、イエス様が私に何をしてくれたのか、どこに連れて行こうとしているのかを考えて語ることです。でも、その根本的なところで、「イエス様は私を赦してくださった。そしてこれからも赦してくださる」という実感を語る事が証となります。ペトロが語るイエス様は、ペトロを赦してくださるイエス様の姿です。
 証しというのは基本的に信仰者にはあるものです。これまで生きてきた中で、神様と触れあったと思える時、あるいは、自分の経験から、神様に対して率直に考えていることを語ることが証となります。あくまで「私とイエス様」の間の関係を語ることになります。
 ペトロはイエス様を裏切ってしまったという苦しみを経て、イエス様から赦していただいたという最大の喜びを得たということになるでしょう。
 人生の中で赦されているという実感は、神様と触れあっている人に与えられる大きな恵みです。イエス様を信じることが、人生にあって、赦されているという事実に思い当たる人は幸いです。それは生きる事が神様から祝福されているという事ですから。
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