礼拝説教

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東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二一年 一〇月一七日 第二二一四号
「選ばれた者たち」 ローマの信徒への手紙 一一章一節~一〇節

 先週礼拝後に納骨の儀を行わせていただきました。本来ならば教会墓地まで出向いてそこで納骨式を行いたいところですが、現在のコロナ禍の状況ですので、教会でお骨を受け取り、お墓に収めるまで保管する事となりました。お骨は準備室に安置させていただいています。
 日本の仏教とキリスト教では死生観が違いまして、仏教の場合、死者が彼岸に行くまで地上の人たちがちゃんとお送りしないといけないとなっていますが、キリスト教の場合、地上での生涯を終えると、眠りの内に神様の元へと向かうとされています。ですから既に亡くなられた方は神の民に変えられています。
 そこは私達もやがていくところです。この際、私達は国境や民族のしがらみを超えて、全員が神の国の住民となります。
 生きている間、私達は自分の属する国の国民としての自分と、神の国の民としての自分を合わせ、いわば二重国籍の存在となります。やがて天の国の住民となる訳ですが、地上の国の国民である事は、地上に生きる上でどうしてもついて回ります。
 キリスト教においては、どこの国の国民が救いに近いとか、神様に愛されているとかは一切なく、神様を信じるならば差別無く誰でも神の国の住民になれることを知っていますが、ユダヤ教では全く違いました。彼らにとって、神の国の住民になれるのは、神様から選ばれた国民である必要があったからです。
 それがイスラエルという民族でした。
 ところで私は説教の際、ユダヤ人とイスラエル人を意識して使い分けています。皆さんはこの二つの違いがお分かりになりますか?
 イスラエルもユダも元々人の名前のことです。旧約聖書によりますと、神の民として救いに預かるのはアブラハム(1)の子孫となっています。そのアブラハムの孫の名前がイスラエルで(2)、そのイスラエルの子孫がイスラエル人となります。そして彼らは救いの中にあります。
 対してユダヤ人ですが、これはイスラエルの息子が一二人いまして、彼らはイスラエル十二部族の先祖になりました。そのうちの一人ユダという人物がおりまして、彼の子孫がユダヤ人と呼ばれます。
 ですからイスラエル人もユダヤ人も旧約聖書における神の民の一員となりますし、信じている神様も同じです。ちなみにイエス様の場合、父であるヨセフがユダヤ人ということで、イエス様もユダヤ人とされています。それに対して書簡記者であるパウロはベニヤミン属の出身のため、ユダヤ人ではなくイスラエル人とされます。本日の聖書箇所の最初の一節では「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。」とはっきり書かれています。ですから、パウロは正確に言えば、ユダヤ人ではなくイスラエル人だとされます。
 パウロにとって自分がイスラエル人であることは誇りでした。イスラエルは神様に愛されている民族であり、神様に相応しく生きることが彼にとっての最大の目的でもありました。ですからかつてのパウロは、全ての人が救われると言うキリスト教の教えに激しく反発し、キリスト教を攻撃してきました。イスラエルを選んだ神様こそが正しいので、キリスト教のような邪教を排除することが神様のためであると真剣に考えていたからです。
 しかしパウロがイエス様と出会って回心してから(3)、神様の本当の思いとは何かを知りました。それは神の民とは、イエス様を信じる者全員のことを言うという事実です。かつての神の民と呼ばれたイスラエル人は、考え方を変えなければ神の民として生き残ることが出来ません。
 三節以降に書かれているのは旧約聖書列王記上の一九章に書かれていることなのですが(4)、たとえ神の民であるイスラエルが滅ぼされたとしても、神様は救われるべき人をちゃんと用意していることを示している箇所です。神の民は神様の恵みによって必ず現れます。神様が望めば神の民はいつでも作られるため、救いというのはイスラエルに限ったものではないと言う意味です。
 六節には「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。」とありますが、神様が恵みによって救われる人を選びます。正しい行いをするとか、神様に仕えるものを優先して救うというのでもありません。神様は恵みによって選んだ人を救います。
 救いとは行いによるのでは無く、ただ神様の選びによってなされる。それならば、どうすれば救われるのか分からなくなるかもしれません。では新約の時代に鳴り、神様が選んだ人とは誰でしょうか。
 それは、イエス様が選びました。正確には、イエス様は自らの命を捨てることによって、世界中全ての人を選んだと言うべきでしょう。イエス様の命を代償として、神様の選びはあらゆる人々へと向けられるようになったのですから。
 とても簡単な話です。イエス様の十字架を通して、神様が選んだ人とは、全ての人を指します。誰もが選ばれたことに対して喜んで良いのです。ただし、選ばれたと言うことが分かった人にとって大切な事があります。
 七節にそれが書かれています。「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。」とあります。イスラエルが救われないのは、イエス様を認めようとしないこと。つまり神様と敵対することからです。つまり、イエス様を否定することが救いから遠ざかります。逆に言えば、イエス様を受け入れ、信じるものが救われるという事になります。つまり、選ばれた私達がなさねばならないこととは、たった一つ。イエス様が私を救ってくださったということを信じることです。
 それが出来れば、誰でも救いに入ります。そこで待っているのはあらゆる民族を超え、全てが等しい世界なのです。
 信仰とはつまり、イエス様を信じるという本当に単純なこととなります。パウロが繰り返し伝えているのは、まさにそこにあるのです。一〇節にあります、「彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」そのような存在とならないように、そのような人たちを増やさないためにこそ、教会は存在します。
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