礼拝説教

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一九年 八月 一一日
 「まことのぶどうの木」 ヨハネによる福音書 一五章 一節~一〇節

 私の前任地は山梨県でしたが、山梨は果物王国とも言われ、ブドウの産地として知られます。実際私の前任地で会った市川三郷町にはワイン製造所があり、教会員がその家のいとこと言うこともあって、聖餐式用のワインを無料で送ってくれるというありがたいところでした。ですから前任地では聖餐式では本物のワインを用いていましたね。ちょっと前に山梨では一升瓶で葡萄酒が売られているとテレビでやってたのを観ましたが、実際普通に売ってます。日本酒の代わりのように葡萄酒を飲んでました。
 山梨が果物王国と呼ばれるようになった訳はいくつかの地理条件が重なったためです。例えば気温の寒暖差が日本で一番大きいところ。果物は寒暖差が大きいほど糖度つまり甘さが増すこともありますし、山梨は昔の富士山の噴火によって火山灰に一度覆われていますので、土地が痩せているというのも理由の一つです。土地が豊かだと農作物やお米などを作る事が出来ますが、痩せているとそういうものが録りにくくなるため、痩せた土地でも収穫出来る果物類の生産に力が入るのですね。
 葡萄は痩せた土地でも育ちますし、絞って放っておくと勝手に発酵してお酒になります。イスラエルの国は荒れ野の広がる大地ですが、こんな土地でも葡萄は育ちますので、葡萄は大変重宝されました。聖書では最初に創世記のノアという人物が葡萄酒に酔っ払って裸で寝てしまったというのが書かれていたりしますが、古くから葡萄は好まれたようですね。
 そんな身近な存在だからこそこれを聞いている人たちはよく理解出来るのでしょう。葡萄に関するたとえ話をイエス様がしております。
 本日読んでいただきましたヨハネによる福音書一五章はちょっと不思議なところでして、一四章の最後の三一節でイエス様の言葉で「さあ、立て。ここから出かけよう」と言っておきながら、まだ話し続けている箇所になります。何故なのかは不明です。編集の間違いで、本来一四章はもっと最後の方の結論で語られたものではないかと言う人もいますし、本来もっと短かったのを後で継ぎ足したのではないかと言う人もいます。でもおそらくは、この部分で語るべきものだった箇所脱兎言うことだったのでしょう。このたとえ話が一四章の次に来る意味があるのです。
 この箇所は教会に通っていると、大変よくお話に出る箇所です。教会学校でもここは好んで語られます。理由は、これがとても分かりやすいからです。ヨハネによる福音書でイエス様の言葉は、十字架と復活を理解して初めて理解出来るものになっています。ヨハネによる福音書は一通り読んだだけでは分かりづらいのが特徴です。
 そんな中、とても分かりやすいたとえ話がこの一五章の言葉です。まず一節の「わたしはまことのぶどうの木。わたしの父は農夫である。」という言葉が信仰のなんたるかをはっきりと示しています。まず「まことの」という言葉がありますが、これは良き実を付けるように、きちんと手入れされている木であると言うことです。
 葡萄の木は土地に根を下ろし、そこで養分を蓄え、実を付けます。その養分は葡萄の実に与えられる事になります。ここで収穫出来る実こそが信仰の形、信仰の目的となります。イエス様を信じるとは、実を付けるためであるという目的があります。ただし、葡萄は放っておいても実は付けます。しかし手入れをきちんとして、場合によって不必要な枝を剪定しないと立派な葡萄の実を付けることができません。
 二節に「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」とありますが、立派な葡萄の実を作ろうとするならば、不必要な枝を切り落とすことも大切であることをお話しになっています。
 この部分、切り落とされるということについては、私たちには忘れてはならない部分です。
 私たちにとって、信仰を持っていたとしても、救われないという可能性があるという意識をどこかで持っていなければならないものです。切り落とされるという言い方は容赦無いようですが、たとえ信仰者であったとしても、不必要と判断されたら切り捨てられてしまいます。その恐怖心は心のどこかに持っている必要があります。イエス様から切り離されてしまうという恐ろしさを持ってこそ、信仰の意味があるのです。
 六節に「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」とありますね。信仰者にとって、何よりの恐怖、恐ろしさとは、イエス様から「お前なんか知らない」と言われてしまうことですから。しかし一方、七節では「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とあります。実を付けることが出来たものは、神様から祝福を受ける事ができるとされます。
 イエス様につながっているならば、それだけで私たちはイエス様の望む生き方ができるということになりますが、それではどうすればイエス様とつながり続けていけるのかという点が重要になります。切り捨てられずに済む方法は何かということを考えてみる必要があるでしょう。
 その答えは実はもう出ています。今日の聖書は一五章ですが、その前の一四章でイエス様ははっきりお話しになっていました。先週まで学んできた一四章では、イエス様は聖霊について語っていましたが、そこでは聖霊とともに歩むことこそ、信仰であると繰り返し語ってきました。聖霊とはイエス様と私をつなぐものであり、神様の力が私の中に宿っているという事です。
 つまり、イエス様とつながっているという事は、聖霊とともに歩むという思いなのですね。聖霊とは、イエス様と私をつなぐ、いわば通路のようなものと考えていますが、これは葡萄の木の枝のようなものと考えて良いと思います。実を付けるのに必要な水や養分は葡萄の枝を通して実に伝わっていくのです。水や養分を運ぶ、導管と呼ばれる管こそが聖霊であると考えられるでしょう。花などもちゃんと葉や花に水が通ってこそ、植物は育つのです。それを健全に保っていることが捨てられないために必要なものと考えるべきでしょう。
 それをどう健全に保つのか、メンテナンスをするのかと言いますと、私の中に聖霊があると思い、見つめること。これだけです。私の中にはイエス様につながる通路、聖霊があります。その事を意識するだけで私の思いはイエス様とつながります。
 聖霊が私の中にあると信じるならば、そこでイエス様とつながっています。そしてイエス様とつながっている限り、切り離されることはありません。それが切り離されないための方法なのです。私の中に聖霊が宿っていることを意識しつつ歩んでいきましょう。
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