礼拝説教

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東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二〇年四月五日
 「墓に葬られる」ヨハネによる福音書一九章三八節~四二節

 キリスト教の教会暦によれば、本日から受難週に入ります。今週の金曜日に受難日があり、来週の日曜日にイースターを迎えます。本来イースターは喜びの時なのですが、昨今の世界情勢を見るに、今年は愛餐会だけでなく聖餐式も中止と言うことで、素直にお祝いできない状況なのが残念です。日本国内にある多くの教会でも自粛か、礼拝だけで聖餐式と愛餐会を行わないなど、色々苦労しているようです。
 講解説教で順番に読んできましたヨハネによる福音書も受難週に合わせるかのように、イエス様の埋葬のところを本日は読んでいただきました。
 教会では主にイエス様の十字架のことと復活のことはよくお話しするのですが、その間、埋葬されたことについて話す機会はほとんどありません。
 実際、イエス様の肉体自体は既に完全に命を失っており、粛々と埋葬されたことだけが描かれます。
 イエス様がお墓に埋葬されていた期間は金曜日の、まだ日が落ちていない日中から埋葬されます。これが第一日目、日が落ちると一日が変わりますので、土曜日となって二日目、そして次の日の日が落ちることで三日目となります。ですから復活は三日後となります。
 この間は全く動きはありませんが、ペトロの手紙一の三章一八節と一九節に「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」と書かれていて、この間、イエス様は死者の国に行って救いを述べ伝えたとも言われています。
 ただ、本日語るべき事はイエス様が何をしていたかではなく、地上に残された人のことです。
 イエス様の処刑は朝の内になされ、昼過ぎにはもうお亡くなりになっています。その後十字架から下ろされましたが、弟子たちは逃げてしまっています。この福音書記者のヨハネはそこにおりましたが、引き取りを申し出る勇気が持てなかったのだと思われます。このままだと誰にも引き取り手がおりません。この場合はそのまま共同墓地へと向かうのが普通です。しかしそこにその遺体を引き取ると言ってきた人がおりました。
 ここには二人のユダヤ人が登場します。一人はアリマタヤのヨセフ。ヨハネによる福音書では名前が出ていない人物ですが、他にはマルコによる福音書の一五章四三節にも登場しておりまして、そこでは身分の高い議員と書かれています。そんな人物が実はイエス様の弟子であったと書かれています。他にも三九節でニコデモという人物がやはりやってきたと書かれています。この人はヨハネによる福音書の三章に登場した、イエス様を訪ねてきたやはり議員です。
 この二人はユダヤ人議会の中でもかなり高い位にある人たちです。ユダヤの最高会議、日本で言うところの国会がサンヘドリンと呼ばれますが、その議員です。今の日本で言えば国会議員よりも地位が高い立場の人です。そんな二人がイエス様のことを知っており、その教えを受けていたと言うことですから、精神的な意味ではイエス様の教えは多くの人々に理解されていたようです。
 ただ、それだけの権力者であったとしても、彼らはイエス様の死刑に対しては無力でした。多分反対ができなかったのでしょう。捕まえられてからたった一日で処刑されていると言うこともありますが、それ以前に、周りの雰囲気に反対することができなかったということで、処刑を止められなかったのではなかったのかと思われます。
 いわゆる空気を読んでしまったため、あるいは自分自身の身を守るため、イエス様を守ろうという思いになれなかったのではないでしょうか。
 イエス様を守ることができなかったということからすれば、彼らは信仰者としては失格になります。しかしそれは他の弟子達と同じです。いや、逃げ出さなかった分、この二人の方が立派とも言えます。
 そしてここからが重要なのですが、彼らは自分が何もできなかったという事実を恐らく恥じたのでしょう。危険を承知でイエス様の遺体を引き取っています。これは何も出来なかった自分の事を反省して行ったことでしょう。彼らの頭の中には、「あの時声を出していたら」「あの時反対していたら」という思いがずっとくすぶっていて、イエス様の死を目の当たりにして、心からの反省をしたということです。
 「後悔先に立たず」という言葉がありますが、人は未来を見通すことができない以上、人生の中で幾多の失敗を繰り返します。その中には一生後悔が残るような失敗もあるかもしれません。そういうものを抱えて生きていくことが人生です。
 人生の中でも数多くの失敗はありますが、信仰生活でも必ず多くの失敗があるものです。人に対して傷つけるようなことを言ってしまったとか、教会のためを思ってやったことが、結果として教会を傷つけてしまったとか。教会の歴史というのは、人間的な失敗に溢れたものでもあります。
 何より私達は完璧な信仰というものを神様に捧げ続けることができません。自分の欲を考えてしまうこともありますが、なにより四六時中神様のことだけ考えて生きるというのは物理的に無理です。どこかで必ず信仰的な裏切りにはなってしまうものです。
 その時にどうすれば良いのかと言うと、これは一つしかありません。謝ることです。誰に謝るかと言えば、神様に対してです。
 謝るという行為は、実は私たちもしています。私達にとっての祈りというのは、その時間でもあるのです。
 そして重要な事は、イエス様は、それを赦してくださる方であるという事です。人の罪を全て身に負って、それを消してくださるイエス様。神様に対して謝ることで心を向けることで、それらも赦される方であることを私達は信じます。
 人間的な失敗は必ず起こります。それを誇る必要は一切ありませんが、一人一人の心の中には数多くの傷があるでしょう。
 信仰を持つと言うことは、それら消すことができない心の傷も赦されると信じていけることを示します。
 私は神様によって赦されているという思い。それはどんな状況におかれても、神様は私を理解してくれるし、私を赦してくださる。その思いこそが今を生きるために大切なものなのでしょう。私は神様から生きるよう促されている。その思いもって歩んでいきましょう。
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