ポセイドン・アドベンチャー

製作年 1972年
製作 アーウィン・アレン
監督 ロナルド・ニーム
脚本 スターリング・シリファント
ウェンデル・メイズ
出演 ジーン・ハックマン
アーネスト・ボーグナイン
レッド・バトンズ
キャロル・リンレイ
シェリー・ウィンタース
ロディ・マクドウォール
ステラ・スティーヴンス
ジャック・アルバートソン
パメラ・スー・マーティン
アーサー・オコンネル
エリック・シーア
レスリー・ニールセン
 
 1969年に出版された小説が原作となる映画で、1972年に作られた作品です。
 原作者は「雪のひとひら」という童話でも有名なポール・ギャレコです。
 
 物語は、アメリカから大西洋を通ってギリシアへと向かう豪華客船ポセイドン号が舞台です。船の中で新年を迎えようとしているパーティの真っ最中。巨大な津波を受けてしまい、ポセイドン号は転覆してしまいました。
 天地が逆さまになってしまった船内はパニックとなりますが、その中で生き残るために行動する人々の行動が描かれていきます。
 ここでの人々の行動は様々です。一度パニックが収まった後、救助隊が来るまでは何も出来ないと、宴会場で待つことを選んだ面々、助かるためには船首に向かおうとする人々、そして救助隊が真っ先に来るであろう船尾の方に向かうのが正しいと主張して、船尾へと向かう数名の人たち。
 この船にはジーン・ハックマンが演じるフランク・スコットという牧師が乗り合わせていました。非常に活動的な牧師で、既存の制度の中で停滞したキリスト教ではなく、新しい価値観の中で、社会に積極的に出ることを主張し、自らも熱心に社会活動に取り組んできた牧師です。ところが活動的だけでなく、伝統的な価値観の教会に対して歯に衣着せぬ言動を繰り返したため、疎まれてアフリカに飛ばされてしまうことになってしまいます。実はポセイドン号に乗ったのはアフリカに行く前にヨーロッパに寄港するためでした。
 自分がこれまで行ってきたことが全て無駄に思え、牧師を辞めることまで考えていましたが、この危機に際し、リーダーシップを取って、船尾へと向かう集団のリーダーとなります。

 船にはもう一人牧師が乗っていました。豪華客船のポセイドン号には小さい教会堂まで作られており、そこで教えを伝える船付きの牧師でした。スコット牧師に対し、彼は他の乗員と共にパーティー会場に残ることを選択します。

 結局スコットを含め、9人だけが船尾を向かうこととなり、彼らを中心に物語が展開していきます。
 作品としての評価は大変高いもので、本作は映画史に残る重要な作品です。
 当時のハリウッドはだいぶ変化していました。かつてスターを集め、大きなセットで豪華に踊ったり、スペクタクルを見せつけたりと言った、お金がかかる作品は敬遠されるようになっており、低予算で、感性豊かな主人公が社会との軋轢に悩むような作品が多く作られてきました。主人公も素人臭さが好まれ、新人俳優が次々抜擢されることになります(本作の主人公ジーン・ハックマンも元々は低予算作品で有名になった俳優です)。
 いわゆるアメリカン・ニュー・シネマと言われるこれらの作品にも数々の名作があり、そこから今の映画につながっているのですが、低予算作品ばかり作られると、困るのがスター俳優達や、大がかりなセットを造ってきた裏方の人たちです。
 彼らの仕事を奪わないように、時として大がかりな作品も必要とされるため、本作が作られたという経緯があります。それで大ヒットを記録し、同じ経緯で作られた『タワーリング・インフェルノ』(1974)などと合わせ、「ディザスター(災害)映画」というジャンルを確立しました。
 今から振り返ると、映画を観て考え込むような作品ばかりが作られてきたので、たまにはスカッとした小気味良い映画を観たいと思ってた人が多かったと言うことでしょうか?映画史の一つのエピソードです。
 本作とキリスト教の関係は、主人公が牧師と言うことも含めて大変たくさんあります。
 そして大変ユニークな点は、本作は旧約聖書の側から見ることも、新約聖書の側から見ることもできるというところです。

 旧約聖書の観点から見るなら、本作はモーセによる出エジプトとして考えられます。当然主人公のスコットがモーセで、彼と共に行くのがイスラエルの民となります。
 劇中、宴会場に残った人々や、フランクとは別に脱出口を目指す人たちは出エジプトに際してモーセに不満を漏らすイスラエルの民の人たちを示すでしょう。
 最初9人で始まった脱出行ですが、全員心を合わせるとは言い難く、不平不満も出ますし、絶望感も出てきます。それを叱咤激励するスコットの姿がモーセに重なります。
 出エジプトに関わるものとして、行程の中で水によって前に進むことができないというエピソードがあるのも特徴的です。最初はスコットが潜って道を探りますが、水中で身体が引っかかって身動きが取れなくなったところをベルという老婦人(往年の大スターであるシェリー・ウィンタースが演じています)が水の中に飛び込んで脱出路を確保するのですが、これは出エジプト記の葦の海の奇跡を思わせます。

 出エジプト記14:21 「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。」
 更にラストシーンは印象的でしょう。目的地である船尾にたどり着く一歩手前。熱い水蒸気が吹き出すパイプを前に立ち往生を強いられる彼ら。これまで次々に命を落としていった仲間のことを思ったスコットが命を省みずにパイプに飛び移り、水蒸気のバルブを閉めます。
 これによって残った人たちは全員たすかるのですが、肝心のスコットは大やけどを負って、そのまま落下して命を落としてしまいます。
 この姿は、出エジプトを成し遂げ、荒野の四〇年の間イスラエルを率いていながら、最後に約束の地カナンにたどり着くことなく亡くなったモーセの姿と重なります。
 その意味では本作の主人公スコットはモーセを示す存在として考えることができます。

 申命記34:4 「主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」 」
 一方、新約聖書の観点から見るならば、スコットはイエス様の似姿として描かれることになります。

 十字架前に活動されていたイエス様はユダヤ教の中にあって改革者でした。これまで通り何も変わらない儀式と律法を守っていさえすればいいとする旧来のユダヤ教に、本来の神様の教えはそこにはないと主張し、行動する愛の大切さを語ります。
 ポセイドン号の乗組員に他にも牧師が乗っていましたが、彼は他の乗客と共に会場に残ることを選択します。スコットとこの牧師の対比がそのままイエス様とユダヤ教祭司の関係を示しているとも言えます。
 「苦しいときに神に祈らないこと。君の内なる神に祈れ。勇気を持って戦え。神が求めるのは勇者だ。臆病者ではない。神は努力するものを愛する」これは劇中スコットが言った言葉ですが、明らかにこれは旧来の教会の価値観とは異なるものです。スコットは、旧来の人を待ってるだけの教会ではなく、活動する愛を積極的に行おうとしていた牧師でした。
 人々を愛することこそが神様の命令であることを語るイエス様の姿とも重なります。

 マタイによる福音書5:44 「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
 実はこの積極的な愛の実践は考えはこの映画が公開された70年代では教会の中にもあった運動です。
 当時「史的イエスの研究」という実践的な考え方が出ていました。これは旧来の聖書の教えはイエス様の死後に編纂されたものなので、イエス様が活動していた時に語られた言葉こそが本当の教えであるとする考え方です。これはキリスト教の神学に大きな影響を与えましたし、イエス様の真の御言葉として、一般的にも受け入れやすい考えでした。
 この価値観を踏まえて映画も何作か作られています。作られた映画として『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973年)や『最後の誘惑』(1988年)などがあります。やや変則的ですが、『奇跡の丘』(1964年)もかなりこの考えに則ったものと考えて良いでしょう。
 実はこの『ポセイドン・アドベンチャー』もかなりその影響を受けています。特にスコットは行動する愛をとても大切にしていますが、この考え自体が史的イエスの考えの主流でした。
 イエス様が地上でなさったことは、人に対する限りない愛によってなされたもの。それは行動する愛として継承すべきであるというのがこの主張の大きな特徴でした(いわゆる公民権運動もこの流れの中にあります)。

 そんな愛の実践を掲げるスコットですが、旧来の教会にはなじめず、教団から結局アフリカ伝道を命令されることになります。アメリカの中で戦い続けたかったスコットとしては不本意でした。冒頭でかなり不機嫌そうに見えるのもそのためでしょう。
 そんなスコット牧師がポセイドンの危機に際し、先輩牧師が引き留めるのを聞かずに少人数で脱出しようとする姿は、イエス様が弟子達と共にユダヤ人達と語り合う部分に相当します。同行者を叱責しながら励まして出口に向かう姿もイエス様と弟子達の関係に似ています。
 そして最後。みんなを救うためにスコットが水蒸気のバルブを締める際、スコットはぶら下がって命を落とします。この姿は磔刑にされるイエス様の姿を彷彿とさせるものです。
 だからこそこの作品は新約聖書寄りに見るならば、イエス様の十字架の死と結びついていると考えることも出来ます。

 ヘブライ人への手紙9:22 「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。 」
 重要な点をもう一点挙げましょう。 
 ポセイドン号は船底が上に来てしまい、その上を目指す物語となります。何故上に来たかというと、この船は構造上の欠陥があったからとされます。本来船底に重心を置かねばならなかったのに、上の方に重心が来てしまったため、極めて不安定な構造になっており、だから大きな波であっけなくひっくり返ってしまったということです。
 構造の問題点というのを「悪の根源」という意味に捉えた時、もう一つの解釈が成り立ちます。
 スコットをはじめとする脱出者達は、悪の源に向かって進んでいると言うことになります。その間に次々やってくる困難は悪の存在によってなされる妨害です。
 その妨害を乗り越え、悪の根源を滅ぼして脱出するという意味に捉えるならば、ここで彼らがやっているのは、人の心の根源に分け入って、そこで心の悪を滅ぼすという意味合いも持ちます。
 イエス様の十字架の死とは、人の心に巣くう悪を滅ぼして人を神様の元に連れて行くという意味があります。その戦いの中で命を落とす人も出てきます。
 そして最後に罪を消し去り、自由を得るためにスコットが命を捨てています。だから本当にスコットはイエス様の似姿として描かれたと言うことも出来るのです。

 ローマの信徒への手紙3:25 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 」
 ですから本作は旧約聖書のモーセ、新約聖書のイエス様という二つの視点から読み解くことの出来る作品となっています。
 人の見方はそれぞれです。この読み解き方もたくさんある解釈の一つで、キリスト教的な視点に立って見るならば、このような見方も出来ると思ってくれれば幸いです。