ハリー・ポッター(シリーズ)

製作年 2001年~2011年
製作
監督 クリス・コロンバス
アルフォンソ・キュアロン
マイク・ニューエル
デヴィッド・イェーツ
出演 ダニエル・ラドクリフ
ルパート・グリント
エマ・ワトソン
ジョン・ハート
 イギリスの作家J.K.ローリングによって1997年に第一巻「ハリー・ポッターと賢者の石」が刊行されてから、2007年の「ハリー・ポッターと死の秘宝」まで11年にわたって書き綴られたファンタジー小説です。

 大ベストセラーとなり、童話としても大変な売上を記録しました。

 現在もこの世界観を元にした映画『ファンタスティック・ビースト』が順次公開されています。

 ただし、当初教会関係者にとってこの本は悪書と呼ばれました。最初にこの作品が刊行された当時、キリスト教会ではこの作品に対してかなり否定的な立場を取っていました。

 理由としては二つあります。
 一つには、劇中に登場するホグワーツの寄宿舎がカトリックの学校のパロディのように見えてしまったことから、教会軽視と見られてしまったこと。
 もう一つ、こちらの方がより重いのですが、この作品が魔法使いを題材にしていたことからとされています。キリスト教の立場としては、超常的な力というのは神聖なものとして捉える空気が強く、神様から来るものと考えられていたからです。神様から与えられるもの以外で超常的な力を求めるのは厳しく禁止されます。

 問題として、超常的な力とは神聖であると同時に、悪魔が用いる邪悪なものでもあると考えられていました。魔法使いというのは、悪魔と契約を交わして邪悪な力を用いるものというイメージが強かったのです。

 ユダヤ教の教えを受け継いだキリスト教もやはり魔術に関しては否定的になります。キリスト教にとっては負の歴史になりますが、いわゆる魔女狩りが行われたのは、これが理由となります。

 また、それが邪悪なものでなかったとしても、人が人としての能力を越える力を使いこなすのは、神様をないがしろにする行為であるという考え方も依然存在します。
 ですから基本的に教会は魔法使いを否定的に捉えざるを得ない立場ですので、拒否反応が出てしまうのも仕方のないところです。

 ただし、作品そのものを読めば分かりますが、この中には決して既成の宗教を否定するようなことは書かれていませんし、決して宗教を馬鹿にもしていません。こどもの成長と学びの重要性をきちんと描いていますし、ファンタジーとしてこどもが喜ぶ素材として魔法が使われていると思えば良いかと思います。

 レビ記 20:27 男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。
 使徒言行録 8:9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。

 本作が積極的な意味でキリスト教の教えに従ってるのかというと、そうとは言えません。そもそも宗教的な正しさに従って、読者が喜ぶものを書いた小説は歴史を見てもとても少ないです。

 何故なら小説は人を描くものですから。そのため人の悪い面も描きますし、正しいものがいつも得をするとも限りません。一般的通念の「正義」は宗教上では悪人にされる場合もあります。

 多くの読者に喜ばれるのは、宗教的なものから離れるものがほとんどです。

 とはいえ、「ハリー・ポッター」シリーズが全く宗教から離れているとも言えません。欧米圏ではキリスト教が社会の常識であり、道徳を形づくっていますので、そこに触れている部分は数多くあります。

 それだけでなく、意識的にキリスト教的なキーワードもいくつもの箇所で用いています。

 はっきり分かるのは、ここで使われている魔法の大部分はかつてキリスト教の公用語だったラテン語のもじりです。

 例えば光を作る呪文ルーモス(lumos)はラテン語で「光」を示すルミネ(lumine)から来ていますし、守護霊を呼び出す「エクスペクト・パトローナム」(Expecto Patronum)は、そのままラテン語で「守護霊を待ち望む」という言葉です。

 又、ホグワーツの勉強のカリキュラムはカトリックの聖職者になるためのプログラムが組み込まれています。ただ、そんな古くさい戒律から自由になりたいと反抗するシーンも多々あるため、これは皮肉として用いられている可能性もありますけど。

 他にもお墓に書かれている墓碑などに表れています。

 シリーズ最終作である「ハリー・ポッターと死の秘宝」ではハリーたちはゴドリックの谷を訪ねますが、そこにはポッター家やダンブルドア家のお墓があります。ポッター家の墓碑銘は「最後に滅ぼされるべき敵は死」と書かれています。これはコリントの信徒への手紙一15:26「最後の敵として、死が滅ぼされます。」から来ていますし、ダンブルドア家の墓碑「宝のあるところに私たちの心がある」はマタイによる福音書6:21「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」から来ています。

 ここから分かるとおり、実はカトリック教会からの影響がかなり強いことがうかがえます。著者のローリング本人は聖公会の教会の信徒だと読んだ記憶があります。
 あと、ハリーの誕生にまつわる物語も重要です。

 ポッター一家は生まれてすぐにヴォルデモートの襲撃を受け、両親が殺されるという悲しい歴史から始まります。当のハリーは何故か一人生き残り、襲撃したヴォルデモートが死ぬということから、ハリーは「奇跡の子」とされます。

 このエピソードですが、世界にたくさんある英雄譚に数多く見られるモティーフです。英雄となるべく運命づけられた子は誕生の時や赤ん坊の時、つまりまだ自我を持っていない時に外部からの攻撃を受け、それをはねのけるというエピソードがあることが多いのです。

 例えばギリシア神話ではヘラクレスは赤ん坊の時に父ゼウスの妻ヘラから毒蛇が揺りかごに入れられてしまいます。又同じくギリシア神話でのペルセウスは父親から生まれないように、母のダフネが閉じ込められてしまうという困難を経て生まれてくると言うエピソードがあります。

 聖書にもそのようなエピソードが二つあります。

 一つは出エジプト記のモーセ。エジプトのファラオによってイスラエル人のこどもは全て殺せと命じられましたが、母の機転で生き延び、更に強運にもファラオの娘に拾われることで王族として成長しました。

 もう一つはイエス様ご自身についてです。マタイによる福音書によれば、イエス様がお生まれになった時、当時のヘロデ大王からこどもを全部殺せと命じられました。両親がエジプトに逃げることで命は奪われずに済みましたが、これも生まれたばかりの赤ん坊が奇跡的に助かったという物語になっています。

 ここから、ハリー・ポッターはイエス・キリストをパロディにしたのか?と怒ってはいけません。英雄となるべくして生まれた人間の典型例として、類型は世界中にたくさんありますので、殊更キリスト教を敵視しているわけではないかと思われます。

 出エジプト記 1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」

 マタイによる福音書 2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

 最後に「ハリー・ポッター」シリーズの最終章で衝撃の事実が発覚します。赤ん坊のハリーが何故ヴォルデモートの攻撃を受けた際に額に出来た稲妻状の傷のことです。

 実はこの傷はヴォルデモートが自分の精神をハリーの身体に封じ込めたものです。ヴォルデモートは自分の精神を7つに分割して様々なアイテムにその精神を移していました。もし本体である自分が死んだ場合、然るべき儀式によってそれらのアイテムから精神を復活させるためです。2巻の「秘密の部屋」ではその精神の一つが宿った日記帳が解放されてしまいましたが、それと同じ精神の入れ物としてハリーという生身の肉体を使ったものでした。それが稲妻状の傷となって残っています。

 そこで最終章でハリーは一度死を体験し、それによって自分の肉体の中に眠るヴォルデモートの精神を殺すことに成功します。

 ここで描かれるのは、死と復活の出来事となります。一度死ななければならない理由に従って敢えて死を迎え、その後に蘇生するというモティーフはそのままイエス様の十字架の死と復活につながる話になっています。

 この死と復活のモティーフは小説や映画ではとにかくよく用いられます。他の映画紹介でも登場することでしょう。

 あと、最後にシリーズとキリスト教の関係を示すものを紹介しましょう。

 分割した精神を全て失ってしまったヴォルデモートがどうなったかというと、死後の世界にも行けず、又現世で幽霊になることも出来ずに生死の間の世界で彷徨うこととなるとあります。

 これはカトリックで言うところの「リンボ(Limbo)」の世界で、天国にも地獄にも行けない魂が彷徨い続ける場所とされています。

 もっともこれは聖書に記述が一切無い部分で、プロテスタントでは信じられていませんし、カトリックでもあくまで民間伝承の域を出ない概念です。

 魂が永遠に苦しめられるという意味合いで用いられたものでしょう。

 決してキリスト教的とは言えない作品かもしれませんが、いろいろな部分でキリスト教との関連が見えてくるのもこの作品の面白さでしょう。