スター・ウォーズ(シリーズ)

製作年 1977~
製作 20世紀フォックス
監督 ジョージ・ルーカス他
出演 マーク・ハミル
ハリソン・フォード
キャリー・フィッシャー他
 
 次に紹介するのは『スター・ウォーズ』です。
 監督ジョージ・ルーカスの名前を一気に有名にし、それまでこども向けのように思われてきたSF映画を大人も夢中にさせた立役者。現在の映画はこの作品のお陰で成り立っていると言っても良いほどで、映画史を変えた重要な作品です。

 実は個人的にもこの作品は大好きで、映画シリーズは全てソフトを購入しています。昔SF好きのイギリス人と英語日本語混じりでエピソード5とエピソード6のどちらがより素晴らしいかで大激論したこともありました。懐かしい思い出です。

 それで本稿を書く際、調べるために「聖書 スター・ウォーズ」で検索をしてみたところ、多数の結果が出てきました。聖書とスター・ウォーズを結びつけて考えてる人の多さを思わされます。

 ただ、この作品に通じるイメージを言わせてもらえれば、キリスト教に限ったものではなく、世界ざまざまな神話のモチーフを用いているようです。又、ルーカス監督の趣味か、日本語がいくつも紛れ込んでますが、それが宗教的な意味合いを持つようにも見えてます。

 例:「ジェダイ」(JEDI)=「時代」(JIDAI)、「オビ=ワン・ケノービ」=「一番の黒帯」、「アミダラ」=「阿弥陀」等々。

 これは当時ルーカス監督が世界的な神話に共通性を見いだしたジョーゼフ・キャンベルという神話学者(ウィキペディア)の著作を読んでインスパイアを受けたからとも言われています。ここで描かれる物語はとても宗教的ではありますが、キリスト教一つのイメージではなく、様々な世界的な神話から取られ、キャンベルが提唱する英雄のイメージを色濃く受けています。

 SF作品と言うことで、聖書とは違う価値観がある作品ではありますが、この作品もやはり『ハリー・ポッター』同様に聖書の影響を強く受けている部分があります。
 それまでSFというと、科学ばかりが考えられてきて、人間の精神の力というのをおろそかにする傾向がありました。その中で人の精神をモチーフに取るこの作品はとても新鮮です。SFというよりはファンタジー世界に近く、だから本作は神話の世界と言われることもあります。一種の新興宗教と悪く言われることもあったりします。

 その精神的な力を表すのに使われる用語がフォース(Force)です。最初に日本で公開された際は、この用語をどう使って良いのか分からなかったのか、最初に公開されたバージョンでは「理力」と訳されていました。
 このフォースというのは説明が少々難しいものですが、大いなる精神が人に宿ったものと考えられました。誰しもある程度フォースは持つのですが、そのキャパシティに違いがあり、桁違いにフォースを使える人たちで、それを使う訓練を受けた者たちをジェダイの騎士と言います。

 このフォースについて、劇中何度も言われるのが「フォースと共にあらんことを」(May the Force be with you)です。
 これはキリスト教圏の慣用句である「主があなたと共にあるように」(May GOD with you)から来ています。ヘブライ語では更にこれは簡単で「シャローム」という言葉で全部表されています。最も肝心なところが聖書から来ているのが面白いところですね。

 民数記6章24節「主があなたを祝福し、あなたを守られるように」
 『スター・ウォーズ』がジェダイとシスという二つの力のぶつかり合いが壮大なイメージで描かれますが、これがキリスト教的であるとも言われることもあります。
 聖書には確かにヨハネによる福音書の1章4節、5節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあるように光と闇の対立として語られている部分は確かにあります。
 ただ、聖書的に言えば、世界は光と闇に二分され、闇が消えればいいという単純なものではありません。
 それに他の宗教でも似た教えがありますので、その部分だけを強調して「キリスト教的」と言うのは少々乱暴かもしれません。
 『スター・ウォーズ』と聖書を結びつけるのはまだあります。
 貴種伝説というのがあります。
 これはエピソード4~6の主人公ルーク・スカイウォーカーが、最高のジェダイの血を受け継いでいながら、一般の人の家庭で育てられたということが挙げられるでしょう。平凡な人間のように見えますが、実はこの世界を救う役割を持つ人間であるという展開は『ハリー・ポッター』でも見られるものです。
 また、エピソード1~3の主人公となるアナキン・スカイウォーカーにも適用できます。エピソード1には母シミがクワイ=ガン・ジン(開眼人)にアナキンの出生について話すシーンがありますが、そこで父親の名前を聞かれた時、「父親はいない」と言っています。単純に死別したか別れたかではなく、ここでは明らかに処女懐胎を含ませた発言で、シミをイエスの母マリアになぞらえているのでしょう。アナキンを特別な子というイメージとして用いたいための小道具かもしれません。

 マタイによる福音書1章23~25節「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」


 アナキンとルークという二人の特別な子によってエピソード1~6は展開していきます。アナキンはダース・ベイダーとなり、この世界に破壊と混乱をもたらす悪魔のような存在になるのですが、彼が悪の道に足を踏み入れたのは、元々は宇宙を救いたいという純粋な思いからです。
 彼の目からすると、力を持ちながら積極的に平和に関与しようとしないジェダイは使命を軽んじる存在に映ります。アナキンの考えるのは、力を持つジェダイの騎士は自ら秩序を作り出し、その秩序を守るために戦う存在でありたいというものです。
 ところがこの考え方は大変危険なものでした。後に帝国皇帝となるダース・シディアスがむしろ世界に秩序をもたらす存在に思えてしまったのでしょう。勿論それは常にアナキンの耳にシディアスが化けたパルパティーン議員が毒を吹き込んだからです。
 このシーンはどこかイエス様と悪魔の会話シーンに通じるものがあります。自分は人を救うことが出来るという自負心に少しずつ毒を注入されると、徐々に意識が変わっていくものです。これが洗脳のやり方です。更にアナキンは実力と使命感は強くとも激情家で、ジェダイの騎士に必要な節制や宇宙のバランスを保つ心に欠けていました。やがて自分でも知らないままシディアスの誘導でシスの力の領域に足を踏み入れてしまいます。

 マタイによる福音書4章8、9節「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 」

 しかしながら、アナキンがダース・ベイダーになったのも、大きく見れば宇宙に平和をもたらすためだったとも言えます。悪魔のような力を持つダース・シディアスを倒すためには、シディアスと同じシスの力を持つ人間が必要だったからです。ルーク・スカイウォーカーの持つジェダイの力では、全くシディアスには通用せず、ベイダーの持つシスの力でなければ触れることさえ出来ないのです。だからエピソード6でルークは父ベイダーの良心に訴え、それに応えたダース・ベイダーはシディアスを倒します。

 一度暗黒面に落ちたものが救いをもたらすというモチーフも、解釈のしようによってはイエス様の死からの復活の似姿と捉えることも出来ますし、宣教者パウロをモチーフにしてるとも解釈できます。ただしあくまで「一応そういう解釈も出来る」という程度で考えるべきでしょう。むしろキリスト教ではなく他の神話等からの影響が強いように思えます。

 使徒言行録2章24節「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」

 それでエピソード1~6として、物語は一度閉じます。これで完結かと思われたのですが、ディズニーがルーカス・スタジオを傘下に収めたことにより、新シリーズの開始となりました。それがエピソード7「フォースの覚醒」とエピソード8「最後のジェダイ」です。
 映画製作もこれまでのルーカス主導から離れました。メインとなる製作者は現在ハリウッドで最も力があると定評のあるJJ・エイブラムスという監督です。前に『スター・トレック』(2009)の監督も務めていますので、二大SFシリーズをどちらも監督したことになりますね。ちなみに私は『スター・トレック』も大好きです。

 この新シリーズでの大きな特徴は、これまで見られていた神話的特徴から脱却しようとしているように見えるところです。

 エピソード7『フォースの覚醒』は、いかにもこれまでのシリーズ作品の焼き直しと言った感じでしたが、エピソード8『最後のジェダイ』は、大きな方向転換になっています。
 この新シリーズの主人公は女性の騎士となるレイと悪の組織に身を置くハン=ソロとレイアの息子カイロ・レンという二人です。エピソード7ではレイがルーク的な、そしてカイロ・レンがダース・ベイダー的な立ち位置にありました。二人は光と闇に分かれて戦っています。
 それがエピソード8になって、大きく様変わりしました。レイとカイロ・レンの間には精神的なつながりが出来、そしてカイロ・レンはそのつながりを利用してレイと共に自身の身を置くファースト・オーダーのリーダーであるスノークを倒し、自らがリーダーになってしまいます。
 ここでカイロ・レンの目的が明らかにされるのですが、彼は権力を手に入れるためにスノークを倒したのではありませんでした。彼が望むのは、秩序ではなく混乱でした。
 これまで悪の組織として描かれた帝国もしくはファースト・オーダーは、ダース・シディアスもしくはスノークという個人を頂点にした一枚板の組織です。つまり統一された悪というのが主体でした。
 これは「善」と「悪」、「光」と「闇」と言った構図として捉えやすい、言い換えれば分かりやすい構図で作られていました。
 しかし、カイロ・レンが望むのは、何ものかによって統一された宇宙ではなく、善も悪もなく、ただ無秩序で人々の欲望によって動かされる更に原始的な宇宙です。
 これはある種悪魔よりもやっかいな出来事が引き起こされることになるかもしれません。カイロ・レンは祖父であるダース・ベイダーも出来なかったというか、しなかったことを起こしてしまったことになります。

 まだエピソードが残っていますが、これからいったいどんな展開になるのか目が離せません。

 ここからは持論となるため、間違っているのかもしれません(エピソード9の作り如何で間違っていたら、以下は廃棄するかもしれません)。

 カイロ・レンによる混乱とレイの立ち位置というのを改めて考えてみると、なかなか面白いものがあります。
 前述したように、新しいエピソードでのカイロ・レンは決して悪魔的な位置づけにはありません。しかし、彼の引き起こす無秩序は、これまでの宇宙を破壊するほどの混沌を引き起こします。

 対してもう一人の主人公であるレイは、自らのジェダイの力を正しい方向へと導く師を探し、ルーク・スカイウォーカーの元へと向かうのですが、肝心のルークは彼女に何も教えようとしないだけでなく、聖域であったジェダイの寺院を焼き払ってしまいます。
 一件投げやりなその行為ですが、ルークがこれからの時代がどうなっていくのか、一番よく分かっていたのかもしれません。これから始まるであろう混沌の時代。その中でこれまでの秩序は崩れ去っていくだろう事を。
 しかし、だからといってそれは絶望ではありません。
 非常に強いフォースの力を持つにもかかわらず、レイはルークやアナキンとは違って普通の市井の出の人間です。それを見たルークは、これまで特別な血を受け継ぐ人のみがなっていたジェダイの騎士クラスに、これからたくさんの人たちが力に目覚めていくことになるだろうと予見したのではないかと思います。
 だからこそ、古い秩序を捨て、これから始まる混沌の時代の中で、新しい力を持った人たちが新しい秩序を作ることを期待したと考えることが出来ます。

 最後のほぼ自殺のようなルークの死は、その意味で新しい時代が来る前に、古い時代のものを精算するためのけじめのようなものだったと考えることが出来ます。

 これを敢えて聖書的に考えるならば、マタイによる福音書9:17「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」という言葉が考えられるでしょう。

 また、フォースの力がより多くの人々に与えられるようになったという意味では、それまで預言者という特別な人物にだけ与えられていた聖霊が、聖霊降臨の出来事によってより多くの人々に与えられるようになったという聖書の出来事も合わせて考えることが出来ます。
 使徒言行録1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」