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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会 一〇月一五日説教 笠間良牧師
「来て、見なさい」 ヨハネによる福音書 一章四三節〜五一節

 今から一月半ほど前になりますが、八月末に神学校の同窓会研修会がありまして、そこに出席してきました。その際いくつかのグループに分かれていくつかの教会を見学に行ったのですが、私はカトリックのカテドラルという東京で最も大きなカトリック教会の建物を見学に行きました。このカルバリ教会から車で神学校に向かうと、その途中にある建物になりますが、私がそこに行ったのは二回目。中まで入ったのは初めてでした。流石カトリックの建物は荘厳です。十字架しかないシンプルなプロテスタントの会堂ばかり見てますから、説明の一つ一つ、設計思想から、どう効果的に光を取り入れるか、そこにある像の説明まで、感心しっぱなしです。見て分かるキリスト教というのもなかなか見栄えがするものです。
 カトリックの建物が見た目も美しく、プロテスタントはシンプルというのは昔から言われていることです。これは聖書をどう見ているかで変わります。聖書は読むものなのか、それとも聞くものなのか。という違いです。聖書を読むと言う事は、その情景を頭に浮かべ、物語を考える方法です。だから、聖書の内容が華々しいために、教会そのものはシンプルになります。一方聖書を聞くということは、耳から言葉を聞きながら、目で会堂の中にある神秘、物語を追うことになります。だから会堂は見た目にも物語を感じられるように作られていきます。それがプロテスタントとカトリックの違いとも言えるでしょうか。目から入ってくる情報って、意外に馬鹿に出来ません。
 これは私たちが今、礼拝の中で何を見ているのか。という事でもあります。プロテスタント教会らしくこの教会はとてもシンプルに出来ていますので、皆さんが今観ているのは私の顔か、聖書か、さもなくば背後の十字架と言う事になります。目に見える情報はとても少ないのですが、礼拝で見えているものはそれだけではありません。そのことを考えていきましょう。
 本日の説教題は「来て、見なさい」という題を付けさせていただきましたが、これは本日の聖書箇所四六節にある言葉です。イエス様に声をかけられたフィリポが友達のナタナエルに、素晴らしい人と出会ったという事を説明する下りです。
 最初にフィリポはイエス様と出会い、その素晴らしさを実感しました。そして友人のナタナエルにそのことを伝えたのですが、最初は口で説明しようとしたと思われますが、その素晴らしさは到底口では説明できないことに気づきました。ですからイエス様に引き合わせようとしたわけです。
 イエス様と出会い、その素晴らしさを人に伝える。フィリポは見事な伝道者になりましたが、伝道というのはなんであるのかということをしっかり伝えています。
 伝道とは、単純に言えば人をイエス様に出会わせる事です。イエス様の元に連れて行き、そこで出会ってもらう。何よりまず伝道とはそこから始まるのです。連れてきた人が目に見えないイエス様と出会えるかどうかはお祈りするしかないのですが、なによりイエス様の事を見てもらおうとする願いが重要と言う事になるでしょうか。礼拝に人が来るということは、そこでイエス様に会ってもらおうとすることです。だからこそ、その人がイエス様と出会えるように、私たちもそのための努力をし続けていくべきでしょう。
 フィリポがイエス様の事を伝えたのはナタナエルという人物でした。十二弟子の一人バルトロマイの別名とも言われている人物です。この人はフィリポほど純粋な人物ではなかったようです。四六節に「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と疑問を感じています。イエス様と出会う前にはかなり否定的な態度を取っています。
 そんなバルトロマイも実際にイエス様と出会って話をすることで一気にイエス様を信じるようになったことが描かれています。
 ここでのやりとりはちょっと分かりづらいのですが、四七節の「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」とあります。これはナタナエルの心の中には熱いものが秘められていたことを感じさせられます。バルトロマイは自分がイスラエルの民であり、国のために働きたいという強い願いがあったからと考えられます。今の腐敗したユダヤ王家ではなく、本当のイスラエルの指導者となってくれる人のお手伝いをしたいと思っていました。そんな自分の心の中まではっきり言い当てられたナタナエルはイエス様の事を信じるようになったのでしょう。四九節で「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言っていることから、彼はそのままイエス様に従おうと心に決めています。
 ナタナエルの考える理想というのは、イスラエルという国が神の民となり、世界を治めるというものだったのでしょう。それがこの時代のユダヤ人達が考える理想でした。それに対してイエス様は五〇節で「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と語り、五一節で「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と語ります。ナタナエルの考える理想を超えた喜びをあなたに与えると言うイエス様の宣言でした。
 ナタナエルはイエス様を見ることによって信じる事が出来るようになりました。そしてそんなナタナエルに対してイエス様は、更に素晴らしいものを見ることになるだろう。と語ります。
 これは私たち信仰者に対して語られた言葉と考える事も出来ます。
 先ほど、この礼拝を通してイエス様を見た人が信仰者になると言いましたが、正確に言えば見たというよりは出会った。というべきでしょう。私たちの肉体の目ではなく、心の目でイエス様を見ています。先ほども言ったように、私たちの肉体の目で見ているものには限りがあります。どんなに目をこらしても会堂の中にあるものしか見えません。しかしイエス様と会って、心の目を開く時、私たちはこの会堂を通り越して神様を見上げることが出来るのですから。
 説教題である「来て、見なさい」とは、イエス様に会いに来なさい。そしてそこでイエス様を見なさい。と言う事です。
 それは私たちの過去から未来に渡る信仰の歴史でもあります。
 私たちは過去イエス様と出会い、心の目でイエス様を見て、信じるようになりました。そして今、私たちは礼拝において心の目でイエス様を見上げています。今礼拝をしていると言うことは、今この瞬間、私たちはイエス様と出会っています。そして未来。私たちが神の国に入る時、その時こそ本当に神様との出会いが待っています。
 それを希望としていくことが私たちが神様を信じると言う事でもあります。
 「来て、見なさい」それは私たちがイエス様と共に歩む道行きを示した言葉です。イエス様と共に歩んでいきましょう。
東京カルバリ教会では新共同訳聖書を用いています。
聖書箇所などはお持ちの聖書か、聖書協会のホームページをご参照ください。

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