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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一九年 一月 二〇日
 「眠っている友」 ヨハネによる福音書 一一章一一節〜一六節

 最初にちょっと変な質問をします。アイドルや俳優、若しくは特定の野球チームとかそういうのを大好きな人のことをなんと言うでしょうか?今やもう日本語として通用する言葉で、そういう人たちのことを「ファン」と言います。皆さんもご存じでしょう。日本語でも「贔屓」と言う言葉がありますが、言いやすいために概ねファンという言葉が使われることが多いと思われます。
 ところでこのファンという言葉の大本の言葉を知ってるでしょうか?単純に英語の辞書でFANという言葉を調べてみますと、扇とか団扇とかとなります。これではありません。実はファンというのは略称で、元々はファナティックという言葉を縮めたものとなります。ではそのファナティックというのが何であるのかと言いますと、語源はラテン語で、「聖霊を与えられたもの」というれっきとしたキリスト教の宗教用語です。神様から聖霊を受けている者。広い意味で受け止めるならば、私も皆さんも霊を受けていますから、ファナティックな存在と言っても良いわけです。
 しかし概ねの場合、これはあまり良い意味では使われません。一般的に言われるファナティックという言葉を日本語にすると、熱狂的な信者、言うなれば狂信者という言葉が用いられます。熱烈に神様を信仰するあまり、端から見て正気を失ってしまったように見える人のことをファナティックと呼ぶのです。そう考えると、普通に用いているファンという言葉が途端になんか怖く感じてしまいますね。
 ところで宗教的な意味で熱烈な人というのが時折見かけることがあります。テレビなどでいわゆるカルト、新興宗教などで教祖様に対して群がる人たちを見る事もあります。そういう場合、「今のキリスト教は違うんだよ」といつも説明に追われる事になるので、面倒なことになったと思う事もしばしばです。特に現代のキリスト教というのは非常に理性的なものですから。
 でも、教会というのはそういうファナティックな人たちによって大きくなってきたという事実もあります。熱烈に神様を信じる人たちが神様を伝えなければ教会は作られることはありません。この教会だって、そう言った情熱があったからこそ建てられたのですし、今も教会は作られていくのは、神様を伝えたいという情熱によるものです。
 熱情は重要だけど、落ち着いていかねばならない。教会にとても重要なのは、そういう、心は燃えているけど、頭は冷静で落ち着いて、神様を伝えていくと言う事になるかもしれませんね。アルフレッド・マーシャルという経済学者が株の売買には「クール・ヘッド・バット・ウォーム・ハート」が必要だと言ってましたが、これは宗教にも当てはまります。
 そういうファナティック、熱狂的な思いを持つ人も、イエス様の弟子達の中にはおりました。むしろイエス様の力を受け、弟子達の多くはそういう部分があったのではないかとも思います。
 本日の聖書箇所はそれがよく現れているところとなります。
 先週の箇所でエルサレム近くのベタニア村でイエス様が親しくしていた一家の末っ子であるラザロが病気になったことが伝えられました。エルサレムから離れた場所で活動中のイエス様でしたが、その連絡を受けてエルサレムに帰ろうと言っています。
 当初弟子達はラザロは病気になっただけだと思ってましたが、一四節でイエス様ははっきりと「ラザロは死んだのだ」と語られています。
 そこで弟子の発言が出ています。
 ここで話をしたのはトマスという弟子です。トマスという弟子の名前は聖書ではそれなりに有名ですね。ヨハネによる福音書の二〇章に、イエス様が復活されたことを信じず、実際にイエス様を見て信じたというエピソードが有名です。本日歌う賛美歌ではありませんが、賛美歌二四三番の三曲目にも「うたがいまどうトマスにも」という歌詞があります。そんなトマスが突然立ち上がり、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったと一六節に書かれています。
 唐突な描写ですが、これはその時の弟子達の共通した思いだったかと思われます。ユダヤ人との間にあんな大げんかをした直後です。今エルサレムに戻ったら、本当に殺されてしまうかもしれません。しかし、死んでしまったラザロを放っておくことは出来ません。自分の命をかけてエルサレムに戻る覚悟が必要になりました。
 それを知った時にトマスの信仰心が爆発したのでしょうね。信仰心の最大の発露というのは、神様のために死ぬという思いです。思いの強さが死を越えてしまった時、こういう発言が出てくることは実際にあります。そしてこういう人の感情のことをファナティックと言うのです。
 これは決して悪いことではありません。神様のために自分のすべてを献げようという一途な思いがそこにありますから。信仰を語る上で、一度はこのレベルに近くなることもあります。その思いは大切にしなければなりません。
 ただ、このファナティック状態になることは、相当危険でもあります。この状態になると、自分と神様しか見えなくなってしまい、周りの人のことを考えなくなってしまうからです。自分は良いことをしていると信じてしまい、周囲の人を巻き込んで大変な迷惑をかける。信仰心が強すぎる人が陥りやすい罠です。更に、こういう場合、燃え上がるだけ燃え上がって、その後すぐに醒めてしまって信仰まで捨ててしまうと言うことにもなりかねません。実際そんな例は牧師をやっていると何度も目にしています。
 これは信仰を語る上で仕方のない所もあるのです。神様を信じ、その聖霊をいただいた時、自分の命の量が増えてしまったと思える時、その命をもてあましてしまい、わき上がる感情をどう使って良いか分からなくなりますから。ある意味これははしかのようなものと考える事も出来ます。一度発症させておかないと冷静に信仰を観直すことが出来なくなると言う意味で。
 そしてそういう経験を経た上で、自分の信仰と現実世界とのすりあわせを覚えていきます。聖霊が与えられ、炎を胸の内で静かに燃やしながら、この世界で生きていく方法を見つけます。それが信仰者の成長と言えます。
 今日の聖書箇所はトマスの言葉で終わっていますので、イエス様のお考えはどうだったか語られていません。ただ、これも信仰の通過点、成長するためにとして大切なものだとお考えだったのでは無いかと思います。
 実際ここでこんなことを言っていたトマスは、十字架を前に信仰そのものを捨てるかのような発言をしてしまいますが、イエス様と再び出会うことで、落ち着きを取り戻しています。伝説によればトマスはその後インドにまで行ってイエス様のことを伝えたとされます。
 信仰において、神様に対する思いはとても大切です。そして神様のためなら死んでも良いという思いもまた、大切にすべきでしょうね。でも、その思いは一気に爆発させるべきものではないというのも大切です。その思いを胸の中に持ちつつ、言うなれば、体の中に炎が燃えている思いを持ちながら、生きる事というのが信仰者の強さとなります。心は熱く、頭は冷静で。信仰というのはそういう成長をしていくものなのかもしれませんね。
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