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礼拝説教 message |
東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二三年六月四日 第二二九七号 「偏見を超えて」 使徒言行録一九章一節~一八節 先週の火曜日に東京教区総会に出席してきました。東京に来てからはこれまでほぼ裏方の仕事させられたため、ちゃんと会議に参加することがほとんどありませんでしたから、今回は最初から最後まで座って参加できました。今年は教団議長も来られて色々と質問がでていたので、教団としてのこれからの未来について色々自分なりに考えさせられました。 私が牧師になって早四半世紀。基本的に休まずに教区総会には出席しています。その度ごとに周りには鬱陶しいとか行く意味がないとか軽口で言ったりもしますが、これまで教区総会で色々刺激を受けてきたのも確かです。最初に赴任したのが九州教区で、そこで教区総会に出席した時、教会と社会と関わりを真面目に議論していたのを見て驚かされたものです。具体的には九州教区として、正面から差別と戦うことを掲げていました。そのお陰で色々勉強しましたし、研修や差別と戦う現場などを見せられて良い経験させていただきました。キリスト者として差別と戦うという姿勢はとても大切なものだと学びましたね(1)。 そこで学んだことも多いのですが、それで思ったことの一つは、差別とは決して無くならないものだと言うことでした。時代によって、土地によって様々な形を取りますが、人間は集団になると必ず差別が起こります。人の心には、同質なものに囲まれていると安心するという心理があり、異質なものは排除したいと思う心が必ず起こるものです。つまり集団が出来ると、必ずそこには差別が起こるようになるのです。人類の歴史と共に差別もあります。しかし、だから諦めるのではなく、その時代その時代できちんと声を上げてより多くの人たちに理解を求めることが重要だと学びました。解決が出来ない以上、差別とは戦い続けるものであると言うことでした。もっと言うならば、差別が必ず起こるならば、その集団の中で解決できるようにすること。一つ一つの事案で解決を探すことが大切になります。 多くの場合差別というのは、特定の括りにある人を自分たちよりも劣った存在として考える考え方です。それこそそれは大変多く、生まれた国や民族、生まれた土地、年齢や性別、病気、金のあるなし、とにかく何でもかんでも、自分たちとちょっと違うと言うだけで差別の対象になります。 キリスト教は常にそれと戦い続けてきたという側面があります(2)。 その戦いは、キリスト教の初期からありました。彼らが行ったことは、まず自分たちの中にあった差別の心と向き合うことから始まりました。 先週ペンテコステ礼拝でペトロがローマ人に聖霊が降った光景を目の当たりにして、全ての人に聖霊が与えられるのだと言うことを知ったというところを学びましたが、その際、ペトロは自分自身の心の中に、ユダヤ人以外の民族に対する差別の心があったという事実に思い至りました。 神様からのメッセージを知って自分自身の差別の心と向き合い、それを克服できたのがペトロの凄いところですが、それはあくまでペトロ個人のものです。神様からのメッセージを正しく受け止めるならば、これをキリスト者全体のものに変えていかねばなりません。 そこでこの出来事があって後にペトロはエルサレムに戻りました。一節から三節を見てみますと、「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。」と書かれています。はっきり使徒たちと書かれていますので、使徒達の考えもはっきりしています。彼らにとって救われるべき存在はユダヤ人であり、それ以外は二の次であると言う考え方を持っていました。どうしても自分がユダヤ人であると言う考えから逃れることが出来なかったのです。 四節以降ペトロは丁寧にこれまでの経緯を彼らに説明しました。 即ち、自分が何故ローマ人に呼ばれて行ったのか。そしてそのローマ人はユダヤ人でもないのに神様の御言葉を受け取ったのか。そして彼らと一緒にいたところで聖霊が彼らに降りたこと、そしてペトロが彼らに洗礼を授けたことなどを語ります。 異邦人にも聖霊が与えられたという事は、他の使徒達にとってはかなりのショックだったと思われます。彼らにとって、それは全く想定していなかったからです。 後に自分たち使徒に聖霊が降り、それによって人々に聖霊を与える事が出来るようになりましたが、彼らが与えた聖霊は、ユダヤ人に限られていました。むしろユダヤ人に限ることで特別感を出すことと、やはり自分の民族こそが神様に最も近いのだという優越感があったかと思われます。 キリスト教の最初は実はかなりの差別があったということがここから分かります。今で言うところのユダヤ人ファーストですね。 しかしそんな彼らは、イエス様からはっきり道が示されていなかったことから、思い込みがありました。そしてペトロに示された事実を聞かされ、はっきりと自分自身のなすべき事に気づかされることとなりました。 一六節で「そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。」と語ります。これは使徒言行録一章五節のイエス様の言葉で、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」」という言葉です(3)。 弟子達はみんなそれを聞いていましたので、その言葉をみんな覚えていました。しかし、イエス様がお話しになったその時点では誰もこの言葉の意味を知ることはありませんでした。自分自身の常識の中だけでイエス様のメッセージを聞いていたため、その言葉が伝えようとしていたことに気づかないままだったのです。 しかしそのような思い込みを、先に悟ったペトロの言葉が崩します。 一八節に「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と語ったことが描かれます。彼らにとって、ペトロの言葉は神様から自分たちに当てたメッセージでした。彼らはこれによって、イエス様が自分たちに望んでおられることをはっきり知りました。それはこそが、世界中の人々にイエス様のことを知ってもらうことであり、全ての者達が救われるようになるという事実でした。 この時、彼らはようやくイエス様の言葉の意味を知ったのです。イエス様が望んでおられたのは、全ての人を神様の元へ平等に向かわせることでした。特定の民族や資格を持った人々ではなく、全てです。 これによって使徒達は、自分の中にある差別の心と向かい合うことが出来るようになりました。差別とは、気づきと、反省から学ぶものです。そして何よりその根本にあったのは、イエス様を信じる心でした。イエス様が何を望んでおられるのかを知る時にこそ、真の意味で差別と向かい合うことが出来ます。そして私達には、その差別と闘い、乗り越えることが出来ることを信じていきたいものです。 |
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