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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship






 説 教: 「生きた水」

聖 書: ヨハネ 7:37-39

讃美歌: 55238270

礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一八年 七月 一五日
 「誰も行けない場所」 ヨハネによる福音書 七章 三二節〜 三六節

 世界中には現在もたくさんのキリスト教文学と呼ばれるものがあります。過去ヨーロッパでは全ての価値観はキリスト教でしたので、あらゆる文学作品はキリスト教文学とも言えますが、これらの大半は何世紀も昔に書かれたもので、今ではあまり残っていません。その意味では究極のキリスト教文学は聖書で、約二千年間読み続けられているので、聖書は本当に凄い書物だと思います。
 時代に合わせて様々な文学が作られています。日本では有名なものとして遠藤周一の「沈黙」や「深い河」などがありますし、又三浦綾子の「氷点」など、今も普通に文庫本などで手に入るものが多くあります。これらは全て世界中で読まれていますが、全世界を通して今世紀最も読まれたキリスト教文学は「クォ・ヴァディス」という作品とされています。シェンケヴィチというポーランドの作家が書いたもので、この小説が世界中で大ヒットしたため、著者のシェンケヴィチは一九〇五年、第二回目のノーベル文学賞をもらっています。
 この中でも読んだ方がおられるかも知れませんが、内容は、西暦一世紀のネロという皇帝の時代を舞台にしています。基本的には貴族の若者がキリスト教徒の女性と知り合い、結ばれるまでのラブロマンスなのですが、その背景にネロが行ってきたキリスト教の迫害があります。この迫害によって、聖書に書かれています使徒であるペトロとパウロが処刑されるシーンも描かれます。大変重い内容の作品で、だからこそ、文学としては大変素晴らしい作品になっています。私が洗礼を受けるいくつかのきっかけの一つでもありました。
 この「クォ・ヴァディス」という言葉は日本語だとなんだかよく分かりませんが、これはラテン語で、「クォ・ワディス・ドミネ」という言葉の一部です。意味は「主よ、何処に行き給うか」あるいは「イエス様、あなたはどこに行かれるのですか?」という疑問詞です。実はこの言葉はヨハネによる福音書一三章三六節からの引用です。
 この箇所は最後の晩餐の中です。イエス様が「私はこれからあなたたちの前からいなくなる」という宣言を行った際、弟子ペトロがイエス様に向かって言った言葉でした。イエス様の答えは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」というものです。
 イエス様に向かって、「主よ何処に行き給うか?」という問いかけは、本日の聖書箇所である七章三二節以下でも語られている部分です。ここでは弟子ではなく、エルサレムでファリサイ派のユダヤ人との対話の中でこの言葉が語られています。
 三三節と三四節でイエス様は「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と語っています。
 ここにいるユダヤ人達にとってこの言葉は大変謎めいたものでした。目の前にいて語っているこの人物、突然私はいなくなると言っているし、そこには誰も行くことが出来ないと言っている。一体この人は何を言おうとしているのだろうか?と考えました。
 彼らが考えたのは三五節で出ています。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」と書かれています。当時ユダヤ人達は世界中に出ていて、ギリシアやローマにも多数のユダヤ人達が自分たちの共同体を作っていました。そのどこかに行くのだろうか?と言うのが彼らの考えでした。「誰もついて来れない場所」というのを、ここから最も遠い場所と考えた訳です。
 しかし、イエス様がおっしゃっていることは、既にこの世界のものではありません。ここでもう神の国のことを語っていると言う事です。「遠く」と言われると、物理的な意味で外国とか考えますが、イエス様のおっしゃる「遠く」というのは、生と死を超えたところにあります。そこが重要です。
 これの意味するところは、ここも十字架を指しています。イエス様がこれから向かおうとしているのは十字架であり、死を意味します。死の世界まで誰もついてくることは出来ない。という意味にここは取る事が出来ます。
 地上での生涯を終えたイエス様は神様の元へと向かう。そこは誰も行くことが出来ません。何故なら神の国は、一切の罪を持たない清らかな人だけしか入る事が出来ないからです。ですからイエス様の他は誰一人入ることが出来ません。神の国というのは、誰も入る事が出来ない場所だったのです。
 しかし、先ほど引用したヨハネによる福音書一三章三六節には「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」という言葉が付け加えられています。
 誰も行くことが出来ない場所にこれから私は行く。しかし、やがて聖霊を受けた者は、私と同じ場所へと行くことができるようになるだろう。という続きがあってこそ、この言葉には意味が出ます。それができるようになったのがイエス様の十字架の出来事でした。
 イエス様が十字架に付けられて殺される意味とは、先に死の世界にイエス様が行き、そこで扉を開いて人を迎え入れようとすること。つまり全ての人たちが神の国に入るための準備をするために出かけようと言う事になりますね。
 イエス様がこの世界に来られた意味は、ここにあります。つまり全ての人が神の国に入れるようにするため、その道を作りに来たと言うことです。誰も行けなかった場所、つまり神様のおられる場所に、イエス様を通って入る事が出来るようになる。そのことを伝えることが教会の使命となります。
 ところでここでユダヤ人達が言っていた「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」という言葉ですが、それは決して間違いではありません。やがて聖霊を受けたイエス様の弟子達が実際に地球の隅々、世界の果てまで出向き、イエス様の事を伝えています。
 イエス様は天に続く道を開いてくださった。そこから命が与えられています。そのことを伝えていきましょう。
東京カルバリ教会では新共同訳聖書を用いています。
聖書箇所などはお持ちの聖書か、聖書協会のホームページをご参照ください。

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