本文へスキップ

荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

電話でのお問い合わせはTEL.03-3894-7565

〒116-0002 東京都荒川区荒川5-47-4

礼拝Worship


礼拝説教 message

四月一一日 東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 第二一八八号
 「全ての人は罪人」 ローマの信徒への手紙 三章九節~二〇節

 先週はイースター礼拝で、イエス様の復活をお祝いしました。感染対策のため出来ない事も多かったので、来年のイースターは全て滞りなく出来ますよう願いたいものです。
 イースターはイエス様の復活の喜びをお祝いするためのものですが、その前提条件として、イエス様が十字架で命を落とされたという事実があります。復活するためには一度死なねばなりませんからね。では何故神の子とされ、人々から尊敬を受けた人が何故死ななければならなかったのか。
 その答えが、人々の持つ罪を消すためでした。神の御子が自らの命を用いて、生け贄となり人の罪を消してくださったということです。何故そんな事をしてくださったのかと言うと、それが神様が人を愛してくださった証拠であるとしました。神様は一人子の命を人間に与えてくださった。それだけ人を愛されました。その答えを知った時からキリスト教は始まりました。
 キリスト教の三大祭り、クリスマス、イースター、ペンテコステは全て神様が人を愛してくださったということをお祝いするお祭りです。それだけでなく、常に礼拝というのは、神様が私達を愛されているという事を確認するために行うものです。
 神様に愛されていることを喜ぶことが礼拝の中心と言っても良いでしょう。
 神様は人を愛してくださった。その愛を受けた私は神様を愛することでお返ししようというのがキリスト教の振興の基本となります。
 ただ、そこにはまず大切な事があります。
 イエス様によって消えた罪というのは一体何なのだ?ということです。
 私達が考える罪というのは、基本的に法律に沿ったものです。人のものを奪ったり、殺したり、嘘を言ったり。自分の利益のために人を陥れたり。そう言う事が罪だと考えます。信仰的な意味でなければそれは間違っていませんし、信仰的に考えても、かなりの部分は共通しています(1)
 しかし法律的な意味での罪と、信仰的な意味の罪というのは厳密には違いがあります。この部分を理解していないと、イエス様の十字架の意味、そして神様の愛というのも理解出来ません。
 ではなにか。という事が書かれているのが本日の聖書箇所になります。
 パウロは九節で「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」と語っています。
 私達の常識で考えるならば、法律に従って生きているならば、罪を犯したことにはなりません。強いて言うなら、ゴミの日に小さな不燃物を袋に入れて出すとか、知り合いに頼んで他の人よりもちょっと良いものをもらうと言った程度。機転を利かせて他の人よりもちょっとだけ良い扱いを受けたいと言ったような、ちょっとだけずるい、軽犯罪にもならないようなことは日常的に行っていますが、こういうことは罪にカウントされる訳ではありません。
 パウロが言っているのは違います。人間である以上、誰もが持つ罪というのがあるのです。それは良いことをしたとか悪いことをしたとかいうものではなく、人が生まれながらに持っているものです。
 それは、人は神様を見られなくなってしまっているという事です。
 かつて創世記の時代、神様から生み出された人はエデンの園という場所で神様と共に住んでいました。神様が来られたときにはその姿をすぐに見ることが出来ましたし、見られたからと言って何も恥じるものがありません(2)
 しかし皆さんもおわかりの通り、アダムとエバは蛇の誘惑に負けて禁断の果実を口にしました。この時、人の心には神様に見られたくないという秘密が生じました。善悪を判断する心を持つことによって、心に秘密を持つようになります。信仰的な意味で言う罪とは、神様にも知られたくない秘密を持つことです。これはつまり神様から離れると言うことです。
 しかしながら、善悪を知ることこそ人が人として生きることでもあります。善悪を知るから自分で判断が出来ますし、それが無ければ社会で生きていく事が出来ません。善悪を判断出来るのは人として必須です。一方信仰的に言えば、善悪を知ることが罪になってしまうのです。人が生きるために必要なものが罪になってしまうのですから、ここに矛盾が生じます。だからこそ、人は人である限り罪人になってしまうのです。
 パウロはその事を指摘しています。ですから一〇節に書かれているように、「正しい者はいない。一人もいない。」と言われてしまうのです。その点動物は隠し事がないため、罪もありませんが、人間はそう言う訳にはいかないのです。
 一〇節以降の言葉は様々な旧約聖書からの引用の言葉になっています(3)。その最後の一八節に「彼らの目には神への畏れがない。」とありますが、これが最大の罪となるでしょう。
 善悪を知って生きていくことは生きる上で自分自身で判断していけるという事ですが、自分で判断出来るという事は、神様を必要としないと言うことにつながります。その結果として自分の判断が一番正しいつまり神様を自分よりも下に見てしまうこと。それが最大の罪となります。
 つまり、信仰的な意味での罪というのは、神様から心が離れてしまうことに他なりません。つまり人は人である以上罪から逃れられないのです。しかもこれは消すことが出来ません。
 人が人として生きていく以上、罪はどうしても重ねていくことになるとはそう言う事です。私達がものを考えること自体が罪になってしまうのですから。
 罪を犯さないように生きることが出来ない以上、神様に罪を消していただかないと、私達は救われません。
 だからこそ、イエス様の十字架の意味があるのです。イエス様の十字架は生け贄の十字架です。消すことが出来ない、消えることのないはずの罪をイエス様が命を用いて消し去ってくださったのですから。
 これが十字架の意味となります。イエス様は私達を救うためにこの世界にやってきました。それは愛から来ます。その事を信じことが信仰です。


スマートフォン・タブレット用
english한국中国語
東京カルバリ教会では新共同訳聖書を用いています。
聖書箇所などはお持ちの聖書か、聖書協会のホームページをご参照ください。

TOKYO CALVARY CHURCH東京カルバリ教会

〒116-0002
東京都荒川区荒川5-47-4
TEL/FAX  03-3894-7565
info17@karubari-church.org
facebookページ