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礼拝Worship




礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二〇年 一〇月二五日
 「創造主とわたし」 箴言 八章二二節~三一節

 講壇の前の典礼色が先週までの赤から緑に変わりました。ペンテコステ以降最も長い聖霊降臨節が終わり、本日から降誕前主日に変わります。そこで聖霊を表す赤から、命を示す緑へと変わりました。これから約一月の間緑の典礼色となっていきます。
 現在教団の聖書日課から説教箇所を選んでいますが、これもすこし降誕前主日に合わせた形になっています。具体的には、これから一月ほどは、イエス様ご自身について預言された旧約聖書からの箇所からのものとなっていきます。
 聖書は旧約聖書と新約聖書からなります。新約聖書はイエス様について語られたものとなりますが、旧約聖書はユダヤ教の聖典と同じものですから、ユダヤ教の聖書と言って良いものです。それでは何故旧約聖書が重要なのでしょうか。
 旧約聖書の重要な点とは、これもやはりイエス様について語られている書だからです。旧約聖書が書かれた時点ではイエス様はまだお生まれになっていませんから、こういう人がお生まれになりますという預言として描かれています。
 そこに語られるのはメシアとされます。メシアとはヘブライ語で救世主という意味ですので文字通り世を救う人物とされる人物となります。
 旧約聖書の時点ではメシアはこれからお生まれになる方です。そのため未来の話になるはずなのですが、実は過去の話も入っています。メシアという存在が人としてお生まれになるのは未来ですが、目には見えないけど、神様と共にずっと存在するお方であるとされているからです。メシアは人類誕生よりも先にお生まれになっていて、神様と共に地球を作り、その後、時が来たら地上にやってくると考えられていました。
 同じ事がは新約聖書にも書かれています。先日まで講解説教をしておりましたヨハネによる福音書の一番最初にも書かれています。ヨハネによる福音書一章一節から五節までにはこう書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1)ここで最初に神様と共にあったのは言葉であり、その言葉が肉の姿を取ったのがイエス様であるとされております。
 本日の聖書箇所は箴言ですが、ここにも似たことが書かれています。
 実は本日の聖書箇所は二二節から読んでいただきましたが、ここに書かれている「わたし」という主語が誰なのか分からないと意味が通りません。遡って一節を読んで初めて意味が通ります。
 そこでは「知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。」と書かれています(2)。実は本日の聖書箇所で語っているのは人ではなく、神様が最初に作った知恵が語っているとされているのです。
 そうすると意味が通ります。すなわち、最初の二二節も「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。」。あらゆるものに先だって神様がお作りになったのが、知恵であったとされているのです。
 あらゆるものに先だって生まれたもの、ヨハネによる福音書では「言葉」であり、本日の箴言では「知恵」となりますが、どちらも同じ存在を指します。創世記の一番最初に神様がおっしゃったのは「光あれ」でしたが(3)、その言葉が発せられると同時に世界は作られていきます。ですから神様と共に世界を作ったのが言葉であったと分かるでしょう。同時にその言葉は神様の知恵でもありました。
 本日の聖書箇所を通して、その知恵が自らの行いを語っています。例えば二二節では「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。」とあります。あらゆるものに先立って知恵が生み出されたと語ります。三〇節に「御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し」とあり、今はその知恵は神様の元にいると言うことが示されます。
 そして三一節の言葉が印象的です。「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。」これは「やがて私があなた方の元に行きますよ」という予告になっていまして、これが来たるべきメシアの到来を予見する言葉になっています。
 メシアがこの世界に来られた時、世界は救われて神の子がこの世界を治めるようになる。それは神の国と地上の国がつながることであって、人にとって最も喜ばしい時である。本日の聖書箇所で語られているのはそう言った内容になります。
 その預言通り来られたのがイエス様です。ですからこの箇所はお生まれになる前のイエス様がお話しになった箇所と言っても良いでしょう。
 ただ、旧約聖書に書かれた預言と、私達の知るイエス様の姿には若干違いが見えます。旧約聖書で待たれていたメシアというのは、不老不死の存在で、イスラエルの王様となり、イスラエルを率いて世界を統治すると理解されていました。メシアは何よりイスラエル民族のための存在と考えられているのです。
 しかし実際に世界に来られたイエス様はイスラエルのために来たのではありません。三一節にある「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。」という言葉はイスラエル人だけを指すのではなく、世界の全ての人を救うために来られたというところが違います。
 もう一つ。イエス様は王として来られたのではなく、自ら生け贄となるために来られたという点も理解が異なります。イエス様は実際にこの世界を治めることなく去ってしまいました。そのため、「永遠に生きて統治する」という点が大きく異なります。
 旧約聖書を見ますと、メシアとは永遠にこの世界を治める王様ですが、実際のイエス様は、十字架でその命を失いました。ただし、その後復活して天に昇った後、聖霊を人々に与えることで、常に人と身近な存在へと変わっていきます。イエス様を信じる人と常に共にあるという意味では、既にイエス様は世界を治めているとも言えます。
 既に今イエス様と共にある私たちの事を指している言葉になります。
 今もイエス様はこの世界を統治しています。それは私たちの心に寄り添い、私達と共に歩んでくださる存在としてあります。神様と共に歩める幸いを思い新しい一週間を過ごしましょう。
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