本文へスキップ

荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

電話でのお問い合わせはTEL.03-3894-7565

〒116-0002 東京都荒川区荒川5-47-4

礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一八年 一一月 一一日
 「良い羊飼い」 ヨハネによる福音書 一〇章 一一節〜一五節

 キリスト教会には大きく分けて正教会、カトリック、プロテスタントがあります。この教会はプロテスタントですが、特にカトリックとではいくつかの言葉の違いがありますね。いちばん分かりやすいのが牧会者の呼び方です。プロテスタントでは牧師です。対してカトリックでは神父と呼ばれます。結婚式や葬儀などの司式をすると、その違いが分からない方から神父と呼ばれて、なんか恥ずかしい思いをさせられることがあったりもします。
 ところで神父であれ、牧師であれ、これは通称であって、正式名称ではないと言うことをご存じでしょうか?
 カトリックの神父というのは、英語ではプリーストと言いますが、これをきちんと約すると正式には司祭という名称になります。祭りを司るという意味で、司祭がいないとミサを行うことが出来ません。それでプロテスタントの牧師というのは英語でパスター、ミニスター、レヴェレンドといろんな呼び方があります。本教会の属する日本キリスト教団では、正教師という名称が正式な名前となります。だから私も笠間牧師と呼ばれていますが、正式な名前で呼ばれるならば、笠間日本キリスト教団正教師となる訳です。とても呼びにくいし、私もそのように呼ばれると落ち着かない気分になりますので、いつも通りで構いません。
 この牧師という言葉を考えてみますと、まず牧師の役割は、教会の代表です。カトリックの司祭とは異なり、プロテスタントでは牧師がいなくても礼拝を守ることが出来ますし、実際信徒だけの教会も結構あります。その中で牧師という存在は、教会によって選ばれた代表という意味があります。特別に任命され、教会を守り、教会を導く使命を与えられた存在ですので、大変重くて尊い使命を与えられたと言うことです。真剣にこの言葉と向き合っていかねばなりません。
 ただ、本当の意味で「牧師」と呼ばれる存在は、ただお一人しかおられません。牧師は字を見ると分かりますが、「牧」という言葉と「師」という言葉に分かれます。「師」というのは先生を意味する言葉ですが、その前の「牧」というのは羊飼いを意味する言葉です。真の羊飼いとは、永遠の大牧者である、イエス・キリストのみです。
 イエス様こそが羊飼い。これが本日の聖書箇所で語られる結論です。
 ヨハネによる福音書一〇章をこれまで二週にわたって学んできました。その中でイエス様は、羊と羊飼いの関係について言及しています。
 先週イエス様は「わたしは羊の門である」とお話になりました。これは山や広場で羊を飼う際、羊飼いは柵を作って、そこに羊を集めます。その際、羊の出入り口を作りますが、そこから入ってきた羊は柵の中で大切にされます。これを信仰生活にたとえると、イエス様の教えを聞いて、イエス様に従おうとする人は、イエス様を信じることで門を入ることになります。
 その柵の中に何があるのかというと、それはイエス様の御言によってもたらされる神様の力です。言い換えるならば、そこにあるのは命です。それを知ってる人がキリスト者と呼ばれる存在となります。
 この時イエス様がお話になったのは「私は羊の門である」という言葉でしたが、そこから続け、本日の聖書箇所の一一節で「わたしは良い羊飼いである」とお話になっています。門であるだけでなく羊飼いでもあると言っています。
 門と羊飼いとは、同じ役割もありますが、が異なります。
 まず同じ所を考えてみますと、門も羊飼いも羊を守るために存在します。ここで羊飼いや羊の門があるのは、山や丘にある開けた牧草のある場所です。食べ物はたくさんありますが、同時に泥棒や野獣などによって羊が狙われますので、それらから羊を守らねばなりません。それらのものから羊を保護するために存在します。その意味ではどちらも同じ役割を担っています。
 一方、その違うところを考えてみましょう。
 門というのは基本的に動きません。羊は自分の意志でそこに入っていきます。入れば安全、入らなければ危険となります。つまりここでは羊がどのように考えているのかというのが重要になります。
 羊を人間として考え、門をイエス様の教えと考えるならば、イエス様の教えを知り、そこに入っていこうと考えるならば、その人は救われます。イエス様を信じますと信仰告白をした人は救われるという意味になります。
 一方羊飼いは自分の判断で動きます。柵の中にいる羊を命がけで守るという意味では柵と同じかも知れませんが、積極的に動いて羊を守ります。なにより一匹一匹の羊を見分け、羊ごとにちゃんと世話をする存在です。先ほど門を入れば、そこに命があると言いましたが、イエス様を信じる人が十把一絡げに救われる訳ではありません。イエス様を近くに感じられるならば、一人一人が特別にイエス様によって面倒を看られる存在となると言う事を意味しています。
 イエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言った後、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっています。良い羊飼いは命がけで羊を守るとはっきり言っています。それだけ強い決意を持っていたと言うことになります。 イエス様ご自身が自分の事を「良い羊飼い」と言ったならば、それはあなたのことを常に守っている。と言ってくださってると言う事です。
 一五節にある「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」という言葉も印象的です。
 ここに神様のことが語られている事から、イエス様はこの言葉を十字架の意味としても語っています。イエス様が命を捨てることで全ての人が救われるならば、喜んでこの命を投げ出すという宣言ともなっています。
 そして改めて良い羊飼いという意味を考えてみますと、まず何より、良い羊飼いは羊一匹一匹を見分け、その羊に応じて世話をする存在です。イエス様が「わたしは良い羊飼い」と言ったとき、それはイエス様を信じる一人一人に応じて救いを与えるし、時には試練も与えます。それらは全て救いに預かるために大切なものとなります。詩編二三編四節に描かれている言葉「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」は、まさに私のためにちゃんと目をかけてくださるイエス様の姿を示しているところです。
 私たちも又、イエス様を信じたときから、私にとって救いに預かるために必要なものが与えられ続けていると言う事を考えていきたいものです。
 常にイエス様が私たちを見ていてくださいますし、生きるための力、命を与えてくださっている。私個人のために特別に命を与えてくださる。その事を信じていきたいものです。


スマートフォン・タブレット用
東京カルバリ教会では新共同訳聖書を用いています。
聖書箇所などはお持ちの聖書か、聖書協会のホームページをご参照ください。

TOKYO CALVARY CHURCH東京カルバリ教会

〒116-0002
東京都荒川区荒川5-47-4
TEL/FAX  03-3894-7565
info17@karubari-church.org
facebookページ