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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship


礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二二年 八月一四日 第二二五七号
「聖霊が語らせるままに」

 皆さんは遠藤周作の小説「沈黙」(1)をお読みになったことがあるでしょうか?一九七一年に篠田正浩監督が、そしてアメリカのマーティン・スコセッシ監督によって映画にもなっていますので、映画の方でご覧の方も多いかと思いますが、これは江戸時代、鎖国状態になってる日本にポルトガル人宣教師がやってきたというところから始まる話で、その宣教師ロドリゴが長崎奉行に捕らわれて、信仰を捨てるように強いられるという話になっています。
 これは小説で創作ですが、当時の日本では信仰というのは命がけであったことをよく示した小説です。が、ローマの信徒への手紙一〇章一〇節には「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と書かれていて、口で信仰を言い表すことこそ、本当の信仰なのだとされています。ですから誓いというのはとても大切なものなのですが、自分の命だけでなく人の命まで人質に取られ、その上で信仰を捨てることを強いられたとき、人はどのように反応するのかというギリギリのことが描かれています。信仰を捨てることを拒む人たちは容赦なく殺されてしまったという歴史的な事実がありますが、生き抜いて潜伏キリシタンとなって、信仰を伝え続けた人々もおり、嘘をついても信仰を守ったという側面があって、一概に良い悪いとは言えない部分もあります(2)。正しいのは何かということを常に考える上でも重要です。
 これを読んで、身に迫るものを感じましたが、今の日本は信教の自由がある事から、信仰を言い表すことで命が危なくなることはありません。普通に信仰のことを話して、それが受け入れられる社会というのがあると良いと思いますね。実際私達にとっては、信仰を持つことは何ら後ろめたいことはありませんし、むしろ信仰を持っているからこそ充実した良き生活を送れることを語りたいものです。その点はとても良いのですが、普通の生活の中で「信仰を持っています」という事がなかなか言いにくいところもあったりします。
 最初に「沈黙」のことを言いましたが、実際にキリスト教信仰を持っていると命の危険性があると言う地域や時代はかなり多く、信仰というのは命がけでした。特に使徒言行録の時代では、キリスト教は危険な教えと考えられていたこともあって、それを伝えるのは本当に命がけでした。
 本日描かれる聖書箇所は、ペトロとヨハネが捕まってしまったことが描かれています。
 何故捕まったかというと、二節に描かれているように、ユダヤ人にとって「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので」それが我慢できなかったからです。ただしこの場合、イエス様の教えを伝えたからというよりは、大きな集団に教えることが禁止されていたからでしたけど。この当時のユダヤはローマの支配下にあって、いわゆるテロ行為が頻発していましたから、集団にはピリピリしていたのです(3)。四節で「男の数が五千人ほどになった」と描かれていますが、五千人もいると、すぐに暴動が起こる可能性があるためです。ちなみにイエス様が処刑されたのも、表向きの理由は、イエス様が人々を集めて暴動を扇動していたからということになっています。当時のユダヤはそれだけ危険な場所で、だからこそ暴動につながりかねない教えを語るのは危険でした。
 五節以降は裁判の様子が描かれています。ここでの裁判はイエス様の時を思い浮かべる展開となりました。
 ここでペトロは大胆にイエス様のことを証し、信仰を表明しています。自分自身が行った奇跡はイエス様の名前によるものであり、イエス様が力を与えてくださったから奇跡を行う事が出来たこと、そしてイエス様だけが救いを与えてくださることなどを大胆に語ります。一一節にある『あなたがた家を建てる者に捨てられ/隅の親石となった石』という言葉は、かつてイエス様の教えの中にも何度か現れてきた言葉です(4)。元々は詩編一一八編の言葉で、家を建てる際、硬すぎるために家の建築材料としては使えないので捨てられてしまった石が、その硬さのために家の土台として使われたという話です。表面的には見えないけど、最も重要な役割を果たすものになっているということから、十字架に付けられて殺されたイエス・キリストは信仰の中心であり、土台となったということを語ります。
 これらの言葉はあまりに大胆すぎて、下手すればペトロとヨハネも処刑されるんじゃないかと思われましたが、彼らは無事でした。
 その理由として一三節で「二人が無学な普通の人であることを知って」とあって、更に一四節で「足を癒やされた人がそばに立っているのを見て」とあるので、判断が付きかねたこと、そして二一節で「そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。」とあります。ここで彼らを刺激することが逆に混乱を招くのではないかと判断したためかと思われます。
 しかし何よりここで重要なのは、八節の「ペトロは聖霊霊に満たされて言った」という言葉でしょう。聖霊の導きによってペトロが語り始めたと言うことは、神様の力によって彼は語らされたという事です。それは神様の御心によってペトロは動いたということになります。この時点でペトロはどう考えていたでしょうか。神様が私を動かしてくださっているのだから、必ず守ってくださると考えていたか、あるいは神様がお使いになってくださるのだから、命を賭けることになろうとも構わないと思っていたか。いずれにせよ、神様の行う事は正しいのだからという確信の元で大胆に語ることが出来ました。これが聖霊の力です。
 牧師が説教を語るときに、時に自分自身が語るのではなく、神様から語らされていると思う事があります。勿論これは勘違いの可能性も、心が高揚しているからそう思うのかもしれませんが、聖霊が私に語って下さると思う瞬間とはとても幸せな気分になります。聖霊と共にあると言う思いが大変喜ばしい思いにさせてくれるものです。
 イエス様を伝える喜びというのは、まさしく聖霊と私の心が結びついているという思いであり、それは何物にも代えがたい喜びとなります。
 その喜びをもって伝えていくこと、そしてその喜び自体を伝えていくことが伝道でもあるのです。私達は何より喜びを伝えていきます。
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