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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship


礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二一年 二月 二一日
 「神様の姿」 ローマの信徒への手紙 一章一八節~二三節

 先週の水曜日二〇二一年二月一七日から受難節にはいりました。この日から四〇日間イエス様の十字架を思って過ごすことになります。典礼色もこれまでの緑から紫へと変わりました。教会では例年この時期からイエス様の十字架に沿った聖書箇所に移りますが、それはもう少し後になってからにして、しばらく説教箇所はローマの信徒への手紙の講解説教を続けさせていただきます。
 本日の説教題は「神様の姿」とさせていただきました。
 神様の姿と言いますと、皆さんはどうお考えになるでしょうか。一般的には白い髭を生やして白い服を着たお爺さんみたいな姿で表されることが多いですね(1)。こども向きの絵本などでもそう言う姿はよく見ました。ただし、ユダヤ教およびキリスト教では実は神様の姿を描いてはいけないことになっています。他の宗教では当たり前になされる神様の像とかも基本的に禁止されています。これは出エジプト記二〇章四節に書かれている十戒の二つ目の戒め(2)。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」という言葉によるものです。十戒は律法における最も重要なものです。ですから絶対に神様を絵に描いたり、あるいは像を作ったり出来ないのが本来の信仰のあり方です。
 何故神様を描く事が出来ないのかというと、いくつかの理由が挙げられます。最も良く言われるのは、神様は畏れ多い存在であり、人間の想像力を越えるために姿を想像してはいけないというものです。人間の想像力を越えたものを人間が作るのは畏れ多すぎるし、神様を馬鹿にすることにつながるからというのがあります。その姿を見ることが出来ないのに、想像で神様を描くことは大それた事だとされます。
 これが一番大きな理由ですが、他にいくつもの理由があります。
 その一つとして、特定の像に神様を限定してはいけないというものもあります。例えば神様の銅像があるとして、それを拝んでいる内にその銅像そのものが神様に思えてしまうようになっていくことがあり、気がつくと、そこにある銅像が神様と同一視されるようになって、神様ではなく銅像そのものを崇めるようになってしまうという本末転倒になってしまうことがよくあります。本来神様はそう言う銅像とかに限定される訳ではありません。世界中あらゆるものの中に神様の力が宿っているのですから、世界中のあらゆるものから神様を感じることこそが大切だとする考えです。
 本日の聖書箇所はまさにその事を語った箇所です。
 二〇節の「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」という言葉に良く表れていますが、神様によって作られたこの世界には、あらゆるところに神様の力が宿っています。人はそれを感じることが出来るはずなのですが、それが出来なくなってしまったとパウロは言います。
 何故出来なくなったかというと、人が偶像を作ることによって、偶像に心引かれるようになってしまったからです。二三節に「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」とあり、偶像を作ることによって人の心が神様から離れてしまったとしています。
 私達が注意深く周りを見渡すならば、世界のあちこちで神様を感じることができます。しかし目が濁っているならば、本来見ることが出来るはずの神様の存在を見ることが出来なくなってしまうという事です。
 それは偶像のせいだとここでは書いています。しかし同時にこれは、人が欲望の感情を持っている限り、避けては通れません。何故なら信仰というのはわかりやすい形で姿が見えると楽になるからです。私達はどうしても神々しい見た目というのに引きずられてしまうものだからです。
 これは人の本質とも言えます。これは創世記の根本的な話に関わります。エデンの園にいたときの人、アダムとエヴァは欲望というものを持っていなかったために、いつでも神様を感じることが出来ました。神様によって作られたエデンの園には神様の力が満ちあふれていたのでしょう。アダムもエヴァも、そこでは神様を近くに感じることが出来ていたはずです。
 しかし知恵の実を食べてしまったことで、欲が生じ、その結果、エデンの園から追い出されてしまいます。それは人が神様よりも自分を優先するようになってしまったからで、そこで世界の中に神様を感じることが出来なくなってしまったということです。
 人は生きる上で必ず欲望を持ちます。それはつまり何より自分自身を優先すると言うことなのですが、自分を優先することによって、他のものが見えなくなることがあります。その中には神様も含まれますので、どうしても私達は神様と離れてしまいがちとなります。
 だからこそ、神様を忘れないようにと偶像を作るのですね。偶像を作るのは、信仰上必要な部分もあったのですが、先ほど言ったように、それは神様から禁止されてしまいます。
 あれも駄目これも駄目と言ってる訳ですから神様は意地悪です。さて人はどうすれば良いでしょうか。
 それは目には見えない神様から目を離さないようにしなさいと言うことです。目には見えないのにどうやって見るのかというと、それは心を通して見るのです。神様からのメッセージを心に受け止めることこそ、本当の信仰深さとなります。
 そのメッセージをどう受け止めるかは時代によって変わっていきました。
 旧約聖書の時代は、預言者と呼ばれる人が定期的に神様のメッセージを民衆に運んできました。その数少ないメッセージを大切にすることで、偶像崇拝から離れていました。また、聖書に書かれている律法を守ることによって、神様からのメッセージをちゃんと実践していますとしていることも大切でした。旧約の時代、律法が不便であればあるほど、神様を感じることが出来るものとして考えられていた訳です(3)
 イエス様が来てからそれは大きく変わりました。イエス様は十字架を経て天に帰られましたが、イエス様の代わりとして聖霊を世界にもたらしました。
 イエス様を信じる人はその聖霊を心に受けます。そしてその聖霊を常に心に持っているようになります。それはつまり心の中に神様がおられるということです。
 これによって神様がどこにおられるのかがはっきりしました。
 先ほど神様は世界中のあらゆるところにおられると言いましたが、イエス様によって、神様は私の中にいてくださるようになりました。それによって世界を見るとき、人は世界のあらゆるところに神様の存在を感じることが出来るようになります。
 私は私の中に折られる神様と向かい合うことで、世界が神様によって作られていることを知ることが出来るようになります。
 パウロがイエス様を伝える理由の一つとして、神様はどこにおられるのかと言うことを伝えるという使命があります。あなたの心に聖霊を受け入れるならば、見えないはずの神様を感じることが出来るはずです。神様が常に共にいてくださることの心強さを伝えるのです。それが伝道者としてのパウロの使命でした。
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