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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 二〇一九年 九月 八日
 「覚悟せよ」 ヨハネによる福音書 一六章 一節〜四節

 先日私の神学校である日本聖書神学校の同窓会に出席しました現状の日本の宗教事情について相当踏み入った内容の話でかなり刺激を受けました。その中で学校教育の中に徐々に宗教行事が入り込みつつあると言うことが話に出ていました。
 ここで言う宗教行事とは、いわゆる国家神道についてです。かつて国家神道というのは天皇を頂点として、国民全員がその子どもとなって、父である天皇のために働くと言うものを目的としていました。明治憲法にあって、主権というのは天皇一人だけが持ち、国民は天皇の命令に絶対服従です。天皇の言うことを聞く人だけが国民と認められるというのが明治憲法の大きな特徴なのです。天皇は国家神道の頂点に立つ存在ですので、日本国民はすべからく神道の信者であることが憲法で規定されていた訳です。当時のキリスト者はキリスト教心とであると同時に国家神道の信者であるという、とてもややこしい立場に置かれていた訳です。
 これは戦後の憲法によって否定されました。主権は国民にこそあるとされ、更に天皇は神では無く人間であるという宣言がなされました。私たちがしかし明治憲法の考え方がじわりじわりと今学校教育に入り込んでいるということです。
 その戦後の憲法の基本精神として、信仰の自由というのがあります。何者も心の中にある信仰を妨げてはならないというのが基本理念です。戦前のように国家神道を信じる必要は全くなく、自由に自分の信仰が選べます。何を信じても心にやましいことは無くなったのですが、徐々に教育の中で固定化された宗教への誘導がなされているようで、ちょっと不気味さを感じています。
 「宗教」と言ってしまうとイメージ画あまり良くないというのは事実としてあります。一九九五年に起こったオウム真理教によるテロ事件や、九九一事件でのイスラム教のテロ、あるいはアメリカのオルタナティブと呼ばれる原理主義のキリスト教など。世界には様々に危険と呼ばれた宗教がありました。
 それに対して日本にいる私たちはどう対処したのかというと、私自身がその当事者の一人として言うなら、何もしませんでした。勉強会に出席したりして、頭の中では考えていましたが、それらの危険な宗教がどう間違っているのか、あるいはそれとどう対処していくのか。教会の側から世間にアピールしていかねばならなかったことをしてなかったことが大きな反省点になります。教会の中では話をしたりもするのですが、世間一般に誤解を解くための努力をしてきませんでした。それが今のキリスト教会になってしまったのかとも思います。
 教会は怖いところではないと、その時にこそ社会に向かって大声で主張し続けなければならなりませんでした。キリスト教の愛の教えは、人を木津付けるものでは無いと言うことを伝え続けていくべきでした。でも今も遅くはありません。これを伝えていくことも重要です。
 しかし一方、正確に伝える場合、教会にも危険があると言うことも正確に伝える必要があります。
 教会が危険なところと言うと、信徒であっても驚かれるかもしれませんが、中にいるからこそわかりにくい危険性というのもあるのです。
 それは、教会は自らの侵攻の危機に際し、戦う事があると言うことです。
 キリスト教は愛の教えですから、人を傷つけるようなことはしませんが、ただ一つ。神様と無理矢理引き離されそうになった時は、自らの力のすべてを使ってそれに抵抗します。神様から引き離されてしまうくらいならば、どんなことでもするという気概を持つ事も又、信仰には必要なことなのです。その思いがあってこそ、信仰というのは守ることができるのです。
 これはイエス様が弟子達に伝えた教えの一つです。
 イエス様がこれから弟子達の前からいなくなったとき、残された弟子達に対して社会は牙をむきます。お前達の教えは間違っているから潰す。お前達はろくでもない教えを信じているのだから、それを正しい教えに変えてやろうという世間からの圧迫がやってきます。それに耐えろとイエス様は言います。
 本日の聖書箇所二節に「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」とあります。イエス様を信じると言うことは、当時のユダヤ教社会、あるいはローマの社会では邪悪な教えと思われています。だからあなたを正しい道に導いてあげようという人たちが現れるということです。彼らにとって、キリスト教から足を洗わせるのは、正気に戻すという思いがあります。つまり彼らは親切でキリスト教を否定し、親切な思いで神様と人を引き離そうとします。
 神様と出会って信仰を持った人は、イエス様を知らない人たち、時としてそれを否定する人たちと直面することになります。場合によってはそのような人たちはイエス様から私を引き離そうとすることもあります。今日の聖書箇所三節の「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」という言葉そのものです。
 信仰を否定されることは大変きついことです。そこで身の処し方は様々です。
 誰に否定されようと関係が無いと言って信仰を貫ける人や、むしろ家族を説得して教会に行き続けられる人は幸いです。ここにおられる方々の多くはその強さがあるから今この場におられるのは確かです。
 ただ、そういう人だけではありません。どうしても表面的には信仰を捨てねばならなくなってしまう人もいますし、忘れたふりをしなければならない人もいます。信仰を持ちながら、それを各実なら無いことは苦痛ですが、心の中まで屈服はしないという強い思いは持ち続けていかねばなりません。
 信仰生活とは、ある意味では心の中にいるイエス様をお守りする戦いでもあるのです。
 この世界を去る前に、イエス様は弟子達に、強くなる事を求めています。聖霊を受け取った人がなすべき義務とは、神様から離れないでいること。それが信仰の戦いなのです。神様を知った人は、戦いが始まります。その覚悟が必要になるのです。今は確かに信教の自由という憲法に守られ、私たちは信仰をしっかり守ることができますが、それがいつまで続くかは分かりません。その時、信仰の自由を守るためにも戦う心を、何より、私の心と神様を引き離されてしまうならば立ち上がることが重要になります。
 教会とは、この戦いを最前線で戦う場でもあります。神様を伝える大切な場所。心の故郷をしっかり守っていけますように。
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