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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会 一一月一九日説教 笠間良牧師
 「遣わされた御子」 ヨハネによる福音書 三章一六節〜二一節

 聖書はこれだけ分厚いものです。そしてその中には数々の名言や、大切な言葉が収められています。それだけ多い御言があるのですから、その中で皆さんの心を打つような御言はたくさんあることでしょう。それにこれから聖書を読んでいく内に更に大切な御言も見つかっていくことかと思います。聖書には私たちに語られた知恵があります。それを見つけていく事も聖書を読む時の大切な意味です。皆様も思い出深い聖書箇所や、ひょっとしたら人生を変えた聖句というのもあるかもしれません。
 それだけたくさんの御言がありますが、その中でとても好まれる御言もいくつかあります。例えばマタイによる福音書一一章二八節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」やフィリピの信徒への手紙二章六節以下「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」など、教会の掲示板にも良く使われている御言があります。おそらく今言った二つの御言と、本日読んでいただきましたヨハネによる福音書三章一六節の御言の三つが教会で最もたくさん用いられた聖句の一つになるでしょう。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」実際これは素晴らしい御言です。この一言だけで実は新約聖書は全て言い表されています。
 まずこの世界を救おうとなさっているのは神様ご自身であると言う事。旧約聖書に描かれる神様は怒りの神という感じがして、人に対して冷たい印象を受けます。しかし、そのように見える神様でも、本当は人のことを最も愛されている方である。どれだけ愛されているかというと、全ての人を救うために、ご自分の最も大切な一人子をこの世界に降したのですから。
 しかもただ降したのではない。命を奪わせるために地上に降ろしたとされます。それほどの愛を人に対して持っていたという事を示します。イエス様がこの世界に来られた理由とは、全ての人の罪をその身に負って十字架に係るためであったということを示しています。
 最後にイエス様を信じる人には永遠の命を与えると言うことが書かれています。これは何故私たちがイエス様を信じるのかについてはっきりと語っている箇所です。私たちはイエス様を信じるのならば、たどり着く先に永遠の命が待っているとされます。
 これら全ては新約聖書における重要なキーワードであり、この聖句だけちゃんと理解出来れば、ほぼ聖書は理解出来るという素晴らしい言葉です。イエス様を信じることによって、神様の愛が自分自身に注がれている実感を持てる。大変分かりやすく、簡潔にまとめられていますので、とても良き聖句です。
 この言葉が使われている文脈を観てみましょう。
 本日の聖書箇所は、先週に続いてニコデモというユダヤ教の政治家とイエス様の対話の中での言葉になります。そこで先週は、イエス様がニコデモに対して、人は生まれ変わらなければ神の国に入ることは出来ない。という言葉を語っていました。
 それは自分の罪を悔い改め、イエス様を受け入れることで、心が清められること。それによって生まれ変わるという意味であるとされています。
 そして生まれ変わったならば何を得る事が出来るのかと言う事を語ったのが今日の箇所となります。
 イエス様を受け入れること、それは永遠の命をいただくこととされます。それを信じられる人、若しくはそれを本当に信じたいと思う人がイエス様の元へと来る事になります。
 ここに集う私たちは確かに永遠の命というのを信じようと思って来ています。イエス様を信じるとは、命を得ること。そのことを繰り返し繰り返し、礼拝の中で自分自身に教え込んでいきましょう。
 そこから本日の聖書箇所へと移ります。イエス様は、御子を信じるつまりイエス様ご自身を受け入れるならば、命が与えられると語ったあと、一八節で「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と語っています。これは難しい言葉です。一体何を語っているのでしょうか。
 これは実は結構怖い言葉です。イエス様は先に「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語っていますが、では独り子を信じないならばどうか。という問いかけにもなっているのですから。
 イエス様の事を知らないでいるならば、まだ良いのですが、一度イエス様の事を知ったならば、そこでイエス様を受け入れるか、それとも拒否するかという選択を迫られることになります。もし受け入れるならば、その人は救いへと導かれる。しかし、イエス様を知ったにもかかわらず、その受け入れを拒否するならばどうなるのでしょう。
 一九節に「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」とありますが、イエス様を知り、その上でイエス様を受け入れようとしない人は、その心に光をともすきっかけを失ってしまいます。
 イエス様は光をこの世界に伝えるためにやってきました。イエス様を受け入れると言う事は、その心に光を受け入れると言う事。イエス様を受け入れることによって、私たち自身が光り輝けるようになると言うことです。
 一方イエス様を受け入れないと言う事は、その心に光を受け入れないため、心が暗いままということになります。
 この違いというのは、あなたはこの世界に光をともすような生き方、ポジティブな生き方を選択するのか?それとも心の中に暗闇を抱えたまま生きていきますか?心に光が無いと言うことは、世界は悪いことしか起こらず、なんの目的も持たずに生きていきますか?その問いがかけられてます。
 人は誰しも心に闇を持ちます。この世界の目に見えるものをどれだけ取り入れてもその闇は払うことは出来ません。その闇を光に変える事が出来るのは唯一神様だけです。その神様の光を帯びたイエス様を受け入れることこそ、あなたが光の子になると言うことです。イエス様を受け入れたその時から、あなたはこの世界を照らす光となります。一方、イエス様を知っていながら御言を受け入れないならば、その心の暗闇を抱いて生きていかねばならりません。それが一八節に書かれている「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」という言葉で表されることになるわけですから。
 イエス様を受け入れた私たちは、心に光を抱いています。その光で世界を照らす力を与えられているのです。
 私たちは暗闇を照らしますが、その暗闇とは、人の心です。人の心に光をともす生き方ができるようになること。それがイエス様を受け入れた者の持つ力と言えましょう。
 私たち自身は弱くはかない存在です。しかし心に神の国の光を宿した存在でもあります。その光を持ってこの世界を歩み、世界を照らしていきましょう。


東京カルバリ教会では新共同訳聖書を用いています。
聖書箇所などはお持ちの聖書か、聖書協会のホームページをご参照ください。

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