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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一九年 五月一九日
 「裏切る者」 ヨハネによる福音書一三章 二一節〜三〇節

 皆さんご存じでしょうが、イエス様には十二人の弟子がいます。実際にはもっとたくさんの弟子がいたそうですが、その中心となるのはイスラエルの十二部族になぞらえた十二人となります。その中で最も有名で尊敬されている人物はだれかというと、ペトロです。イエス様の一番弟子であり、カトリックの中心であるバチカンはペトロのお墓の上にありますから、今でも信仰の中心とされているくらいです。
 でもプラスの意味ではなくマイナスの意味でもっと有名な使徒がいます。
 それがイスカリオテのユダという人物です。特に日本では様々な小説や漫画など、ユダについて語ったものが多いため、ペトロの名前は知らなくてもユダの名前は知る人は多いかと思います。
 この人物は聖書の中では裏切り者とされ、大変印象が悪い人物とされますね。彼がイエス様をユダヤ人に売ったため、イエス様が殺されてしまいました。そのため彼はイエス様に対して悪意を持った人物として描かれることがほとんどです。
 そして本日の聖書箇所はまさしくそのユダについて書かれている箇所です。実はユダについて考えるというのも、信仰の上では重要な事です。
 今は最後の晩餐が始まったところで、イエス様が弟子達の足を洗って食事に入ろうとしているところです。当然弟子の一人であるユダもイエス様に足を洗ってもらったはずです。
 そして食事の席に着いた時、イエス様が突然言うのです。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」。弟子達はびっくりしたでしょう。これまで穏やかだったイエス様が突然弟子達の裏切りについて語り始めたのですから。恐らく食事の席は大混乱です。おそらくは何故イエス様がそんなことを言ったのかと言うより、一体誰が裏切り者なのか?と疑心暗鬼になったと思いますが、その答えは割とあっさり出ます。二五節に「その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。 」と書かれています。ちなみにここに書かれる「主の愛される弟子」というのはヨハネによる福音書の著者のヨハネ自身であると言われています。
 そうしてすぐにユダが裏切り者であると分かりますが、ユダにサタンが入ったのは、イエス様がパンをユダに渡した時で、更に二七節で「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言ったとされます。明らかにイエス様はユダが行おうとしていることを知っていただけでなく、積極的に行動を促しています。
 この言葉を受け、ユダはそこを去り、ユダヤ人達の元へと向かうことになります。
 この部分は文学的にも大変興味深い素材です。裏切るものを前にして、敢えてその裏切りを促すのですから。
 それでイエス様を裏切ることになるユダですが、彼の本当の思いはどこにあったのでしょうね。実は聖書にはそれが書かれていないのです。正確に言えば、ユダが何をしたかは書かれているのですが、一体何を考えてイエス様を裏切ったのか。彼の言葉や考えがないのです。ただ事実として彼はイエス様を裏切り、銀貨三十枚でイエス様を売ったとだけされています。
 こんな話ですから、あとは想像力で補うしかありません。ですから文学的にユダの思いはどこにあったのか?というのが昔からずっと考えられ続けてきました。こうだと最初から決めつけるのではなく、読む人それぞれがユダはどんな人物なのかを考える事に意味があります。
 この考え方には大きく三種類あります。
 一つは本当にユダが自分から進んでイエス様を裏切ったという考え方があります。銀貨三十枚で売ったとされますが、それは人一人の命の代償としては安すぎます。少なくともユダがこれまでしてきた苦労には見合わない金額ですね。ですからお金の問題ではなく、他のユダヤ人と同じく、ユダはイエス様がユダヤの王になる方だと思ってこれまで従ってきたと考える事が出来ます。自分が思っていたようにイエス様はユダヤの王になるつもりはないということを知ってしまったため、失望してしまったという考えの方が説得力あるでしょう。ユダが理想とするイエス様の姿があって、その理想と変わってしまったため、その思いは失望に変わり、死んでしまえと思ったという考え方です。これは恐らく一番わかりやすい考えでしょう。悪魔に誘惑されて毒を吹き込まれ、自分の意思でイエス様を裏切ったと考えます。
 二つ目の考え方はもう少し複雑です。これはユダがイエス様のことを本当に神の子であると信じていたパターンです。これまでいろいろ奇跡を起こしてきたイエス様は、その奇跡の業を人のためにはお用いになりましたが、自分のために力を使うことはありませんでした。でもひとたびご自分のために力を使うならば、天の軍勢がやってきてイエス様に逆らう人々をやっつけてしまうだろうという考えがありました。そのために命の危機を作り出して、本当にイエス様が神の子であると証明したかったという考えもあります。これは一種のイエス様に対する挑戦です。神の子というのならば、はっきりした証拠を示して納得させてくれ。という歪んだ考えになります。ただ、信じたいために証拠が欲しいという考え自体は誰にでもある自然な思いでもあります。
 そしてもう一つの考えは、イエス様がユダにご自分を裏切るように仕向けたという考えもあります。イエス様がこの世界に来られた目的はご自分が十字架に付けられることによって、人々を救うというものでした。ですから、自分自身を十字架に連れて行く人物を必要としました。ですから、敢えてユダという人物を選び、わざと裏切るようにしたというものです。今日の聖書箇所二七節を改めて読んでみますと、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。」とあります。いかにもイエス様がユダをそそのかしてるかのようです。
 ただ、この三つの考え方のどれが正解なのかは分かっていません。これを考えるのは、皆さんに委ねられているのです。今言った三つの思いとは、イエス様を信じようとしていたけど、イエス様は何もしてくれないという失望、あるいは奇跡の証拠が欲しいという願い、イエス様が私に何を期待しているのかという思い。と言い換えることが出来ます。そのどれも私たち自身が信仰の上で持つものです。
 実はユダを語る上で重要なのは、私の中にも確かにユダがいると言うことを知ることなのですから。イエス様を信じていると言いながら離れようとしている自分、罪を犯しながら、それを観ないようにしている自分、そして自分の罪をイエス様に押しつけようとしている自分。
 そんな自分の中にあるユダの思いを観直すことが信仰を語る上でとても大切なのです。そして、そんな自分をそれでも救って下さるイエス様の愛を知ること。それが「罪を考える」という事なのです。
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