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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二〇年 二月 一六日
 「この人を見よ」 ヨハネによる福音書 一九章四節~七節

 私が東京カルバリ教会に赴任してもうすぐ三年になります。当然東京に来てからも三年ということになりますが、東京にいて本当に良かったと思うのは、私が大好きな映画をすぐに観に行けると言うことと、美術館が近くにあることですね。ちょっと出歩けば一流の絵画と出会えるのは凄く大きいです。
 特に中世から近代に向けての西洋絵画が多く企画されていますが、そこでイエス様の姿を見ることが何度もあります。
 イエス様のいろんな姿を見ることが出来ますが、イエス様の姿を描いた作品というのも流行りというか、好まれる素材というのがありまして、大体二つに大別されます。
 一つは聖母子像と言われるもので、マリアが幼子のイエス様を抱いているものです。これが日本で一番好まれる題材なのかも知れませんね。数多くの絵画を見ました。
 もう一つがイエス様の十字架に至る一連の出来事の中から描かれるものです。ゲッセマネの祈りから始まり、裁判風景、イエス様が十字架を背負ってる光景、十字架にかけられている光景や、下ろされた後の光景なんかもあります。一つ一つ絵画のテーマになっています。
 本日聖書に描かれた裁判の風景もかなりたくさん絵画になっています。れは「エッケ・ホモ」というれっきとした絵画ジャンルの一つです。ですから数多くの絵画があります。ネットを見られる人は「エッケ・ホモ」で検索してみると良いと思います。
 それぞれの画家によって、だいぶ雰囲気が変わります。イエス様が敢然と顔を上げて睨み付けるように描かれるのもありますし、光り輝く姿に見えるものもあります。でも一番多く描かれるのは、民衆の怒りの表情に囲まれながら、茨の冠をかぶって頭から血を流しながら力なくうなだれている姿です。
 この「エッケ・ホモ」というのはラテン語です。「エッケ」とは「見る」の命令形。ホモとは人間のことを意味します。ホモ・サピエンスのホモですね。つまり「この人を見よ」です。本日の聖書箇所五節に「見よ、この男だ」と書かれているのがそれに当たります。ホモとは男ではなく人全体を示すため、「見よ、この人だ」の方が言葉としては正しいかもしれません。
 今日のこの箇所はその「見よこの男だ」が書かれている箇所です。ポンティオ・ピラトは拷問を受けてボロボロとなったイエス様を民衆の前に引き出してこの言葉を語ります。先週も言いましたが、これはピラトがイエス様を憎んで行ったことではなく、イエス様の命を助けようとしてのことです。彼の場合、別段キリスト教徒という訳でもイエス様のことを特別視している訳でもなく、概ね、面倒なことに巻き込まれたくないという思いから来ているようですが、いずれにせよイエス様の命を助けようとはしています。
 先週のところで鞭打ちをして、茨の冠をかぶせてローマの兵士に平手打ちをさせたと書かれていましたが、これらは情けないイエス様の姿を見せることで民衆に呆れさせようとしてのことでした。
 そうしてボロボロになったイエス様を引き出してさらします。その姿とは、血だらけの素肌の上に紫色のローブを引っかけ。茨の冠をかぶせられていますから頭から血も流していたでしょう。更に兵士に平手打ちを延々と受けさせられていたから顔も腫れ上がっていたのではないかと思います。
 そんな中でピラトは「見よ、この男だ」と言います。屈辱的な姿ですが、これだけ情けない姿を見せつけたならば、民衆も怒りを収めるだろうと判断してのことです。
 ですからピラトが言っていた言葉は、「見よ、この情けない男の姿を。これでもう許しても良いだろう」というものでした。
 それに対する民衆の答えが六節にありますが、それは「十字架につけろ。十字架につけろ」というものでした。明らかに彼らはイエス様を殺すことだけしか考えていません。結局ピラトの思いは人々には通じませんでした。拷問をしただけ無駄だったと言えるかも知れません。
 先ほど言いましたが、この「見よ、この男を」という言葉、ラテン語でエッケ・ホモは絵画の題材にもなっています。そこで描かれるイエス様の姿はの多くは苦しめられ、打ちひしがれている姿として描かれているのが特徴です。
 ところでここでのイエス様の姿はどうでしょうか?鞭打たれ、ボロボロになって情けない姿を人前にさらしています。そんな姿を神の子として見ることができるでしょうか?仮にもイエス様は神の子です。そんなお方がボロボロの姿でうなだれている光景を見て、それが信仰の対象と思えるでしょうか。
 いろんな宗教で作られる神の像は力強い立派な立派なものとして描かれる事がほとんどです。人を超えた神々しい姿こそ、立派な神様の姿であり、その偉大な姿にひれ伏すこそ、信仰のあり方であると考えるからです。
 しかしキリスト教は逆で、ボロボロになってうなだれているイエス様の姿こそ,本物の神の子の姿であると考えます。
 これこそが信仰の分かれ目とも言えます。傷だらけボロボロになって、うなだれている姿を真実神の姿と見られるのかどうか。
 何故そのように言えるのかというと、先週も引用しましたが、イザヤ書の五三章四節に、来たるべきメシアについて語っている箇所があります。そこにはこうあります。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」
 つまりメシアがこの世界にやってくる目的は、全ての人の罪を自ら負って、本来人が受けるべき痛みを受けるためだったからです。
 イエス様の子の姿はつまり、私のために苦しんでくださっているのだと考える事なのです。
 それは、イエス様のこの姿を、私のために苦しんでいるのだと思える人が信仰者となるということなのです。イエス様がうなだれ、苦しめられているのは、本来私が受けるべき苦しみを代わってイエス様が受けておられると考える事です。イエス様が苦しめられ、ボロボロになっている姿を見た時、本来私が受けるべき罰をイエス様が受けてくださった。その姿にしてしまったのは私自身であるという自覚こそが信仰のあり方であると言えます。
 私を救うために苦しんでおられる。これ以上に尊い姿はありません。だからこそ、私達は十字架にあって苦しむイエス様の姿こそを最も偉大な行いだと考え、だからこそ、イエス様を信じていくことになります。イエス様のこの姿は、私達にとってとても重要なものなのです。
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