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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 2019年 11月 17日
 「逮捕後の弟子達」 ヨハネによる福音書 18章 12節~18節

 万物の霊長という言葉もありますが、人間は他の動物よりも優れた存在として考えられています。旧約聖書創世記の一章二七節には「神はご自分にかたどって人を創造された」とありますから、人間は神様にとっても特別な存在と言えます。
 では動物と人間を隔てるものは何かと言いますと、色々考える事が出来ます。まず抜群に頭が良いこと、そして器用な手を持っていることが挙げられるでしょう。人間のラテン語名であるホモ・サピエンスは「賢い人」という意味ですし、他にも人間を指すラテン語として「ホモ・ファーベル」という言葉もあります。道具を作る人という意味です。もう一つ上げると、それは人はコミュニケーションを取れる存在であるという事があります。人は言葉を獲得する前からコミュニケーションを取っており、最も効率の良い方法として、言葉を獲得したと言われます。 一人ではできないものも大勢の人と一緒ならできる。人は共同作業をするからこそ強くなれたのです。そこで作られた共同体こそが人の強さになっていきます。その中では外敵からは安心して暮らせます。その意味で国というのも基本的にはその共同体の一つですね。そう言う事で共同体は重要な要素です。でもこの共同体というのは、厄介なことも多々起こります。外敵からは守られたとしても、内部の混乱が起こってしまうことと、共同体同士のいざこざが起こってしまうのです。
 本日は小見出しが二つ付いていますが、そのどちらに登場する人物も、共同体というものとの関わりが見られます。
 先週からヨハネによる福音書一八章に入りました。ここは最後の晩餐が終わってイエス様が逮捕されるシーンから始まりますが、ここから十字架までは一直線となります。
 これまでの一七章までは、ほぼすべてイエス様だけが描写の中心となっていましたが、イエス様が登場しない箇所が初めて現れます。そしてここで他の人物が登場してきます。本日の二つの小見出しの箇所にはどちらもイエス様は登場しません。
 その代わりに二人の人物が登場します。
 一人はカイアファという人物です。この人は当時の大祭司、つまりユダヤ教におけるその年の最高の位にある人です。ですからイエス様を逮捕させた張本人ですね。一四節に「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」と書かれています。
 彼はイエス様を殺す事に賛成でした。ユダヤ教のトップとしてなすべきことは、ユダヤ教という共同体を存続させることです。ですからそれを揺るがせようとする人間は排除します。普通殺すまでは考えないでしょうが、イエス様の教えはユダヤ教の信者を惑わして道を迷わせるものと考えました。その考えに賛同する人が増えると、ユダヤ社会が混乱するだけでなく、ローマ帝国の介入を招きます。これ以上ローマの人間をユダヤに入れたくないという本音がありますから、その危険はなるだけ早く排除すべきだと考えます。
 彼がイエス様を捕らえて処刑しようとしたのは、組織としてのユダヤ教を守るためでした。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」とあるのは、共同体を守るために断固とした処分を下そうとしていた姿でもありました。
 人が生きるために共同体は必要なものです。共同体が大きくなれば、より中にいる人の安全度は増していきますが、同時に中にいる人を見失ってしまうことも起こってしまいます。共同体の一員を守るよりも共同体そのものを守る方が重要になってしまう訳ですね。しかしそれは本末転倒です。共同体を守るために、誰かを犠牲にするという考えは大変危険です。
 一方、後半の一五節からを見てみますと、ここは他の福音書にも書かれていますイエス様の一番弟子であるペトロの行動を描いている箇所です。
 イエス様が連れ去られた後、ユダヤ人達は弟子達のことは放っておかれたようで、みんなバラバラに逃げていきました。その中でペトロはイエス様の安否が知りたいとイエス様が捕らえられた大祭司のお宅に行きました。一五節を見てみますと、最初は家には入れず、門の外に立っていましたが、たまたまイエス様の弟子の中には大祭司と知り合いの人がいて、彼が招いてその家には入れたとあります。
 そして入ろうとしたた時、門番にいた女性から「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と尋ねられました。
 その際のペトロの答えは「違う」というものであったと書かれています。
 仮にもイエス様の一番弟子で、イエス様のためになら死ぬとまで言っていたペトロがこのような答えを言うとは、大変ショックなことです。
 彼がこのようなことを言った理由は、イエス様の弟子だというと、自分自身の命が危ないという思いがあったと思われますが、もう一つ重要な事があると思います。
 ペトロはイエス様の一番弟子であるという強い誇りを持っていました。イエス様を中心とする共同体の中心です。ペトロにとって、イエス様の一番弟子であるということは、他の人から尊敬される立場にあるということの誇りであり、又これによって人間関係が成り立っているという思いでもあります。イエス様に従うならば、自分の人間関係は良いものとなるという思いです。
 しかしイエス様が捕まってしまったならば、それまで築いてきた人間関係が崩れます。身の置き所が無くなってしまうという恐れが生じました。もしイエス様の仲間だと言ってしまったら、他のユダヤ人達からつまはじきにされ、二度と人間関係が修復できなくなるのではないかと思ってしまったからです。ペトロもその意味では共同体の中で生きるために必死になっていった訳です。
 ここで描かれる二人の人物は対照的です。カイアファは共同体を続かせるために犠牲を求め、ペトロは共同体に入りたいために心を殺す。彼らの心には、神様よりも人を見る心しか残されていないと言うことです。
 心の中から神様の存在が消えたとき、人は人しか見えなくなってしまいます。
 逮捕によるイエス様の不在は、そう言った人間の心をあぶり出します。イエス様という存在がないと、こんなに味気のない考え方になってしまうのかと思わされるところですね。心の中心にイエス様がおられることの大切さを改めて思います。
 私たちにとって神様の教えは何よりも大切であると言えますが、同時に教会という共同体を作り上げるため、人との結びつきも重要です。一般の共同体ではなく、教会というのは、そのどちらも必要です。神様だけを観ていたら共同体にならないため、教会は成立しませんが、人だけを見ていたら、それはもはや教会とは言えません。そのどちらも必要なのです。教会を考えるとき、まずその中心に本当にイエス様がおられるのかどうか。その事を考えていかねばなりません。心の中からイエス様がいなくなるようなことがないよう、心を引き締めて教会を作っていきたいものです。
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