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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一八年 九月 一六日
 「わたしはある」 ヨハネによる福音書 八章 四八節〜五九節

 先月八月末に神学校の同窓会研修会がありまして、福島のいわきに行ってきました。バス移動していると、町のあちこちに今も放射能検出のための線量計が置かれていることや、避難をして、放置されっぱなしの教会なども見せていただきました。中でも当時近くの教会で牧会されており、現在も福島に残っておられる先生の言葉を伺い、少々ショックを受けました。あれから七年、私たちも祈りに覚えましたし、また様々な被害状況を聞いていましたが、未だにその時の話をすると涙ぐまれている先生の姿がとても印象的でした。こればかりは実際に体験した人でないと分からない苦労というのがあったのだろうと思いました。
 日本には「百聞は一見にしかず」ということわざがありますように、実際に体験することが一番理解出来るということもあります。体験すると言う事、実際に見聞きすることが一番理解出来ることだと思います。ただ、実際に被災を受けた人たちはそのトラウマを抱えることになりますので、体験とは人生にとっても大変重いものです。
 先週、説教でアブラハムのことをお話ししました。アブラハムの子孫が神の民と呼ばれるようになりましたが、その子孫というのは、アブラハムの遺伝子を受け継ぐ人ではなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ人であると言うことをお話ししました。アブラハムが神様の前に何故良いものとされ、祝福を受けたのかというと、アブラハムが心から神様のことを愛し、神様に従ったからです。そしてそんなアブラハムのような信仰深さを持つ人が救われるようになるとお話ししました。
 アブラハムの時代と今は少し違います。アブラハムがいた時代は神様とつながる手段は極めて限られていますので、神様の言う事を何でも聞いて行動することが信仰深さでしたが、私たちにとってはイエス様がちゃんとどうすれば良いのかをお話しくださっていますので、その通り信じていればアブラハムと同じ信仰を持つ事が出来ます。それはイエス様が救世主であると言うことを信じるということ。それを信じる事が出来さえすれば、アブラハムと同じ信仰深さとなるということです。今の私たちにとっては、アブラハムのような信仰を持つ事は、誰でも出来るようになったと言う事です。本日の聖書箇所の五一節に「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」というイエス様の言葉がありますが、まさしくイエス様の言葉を信じる人は救われる人であると言う事をはっきり言っています。
 イエス様はそのことをユダヤ人達の前でお話ししました。しかし、それを聞いたユダヤ人達は怒りました。ユダヤ人達にとってアブラハムの子孫というのはアブラハムの遺伝子を受け継ぐ自分たちだけであり、当然救われるのは自分たちだけであると思っていたからです。
 当然ユダヤ人達はイエス様の言葉に大反発します。最初の四八節には、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と彼らは言ったと書かれています。イエス様の言葉に余りに腹が立ったから、ユダヤ人にとって最も激しい差別用語を使ってイエス様を非難しています。今で言うヘイトスピーチです。更に五二節と五三節で「ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」」と言う言葉を用いています。
 これを少々言い換えますと、こう言う意味です。「あなたはアブラハムのことを素晴らしいという。だけど、アブラハムを直接知っている訳でもないのに、なんでそのことを見てきたように言っているのだ」と言うことです。イエス様の言葉は、何千年も前に亡くなった人のことをあたかも知ってるかのように言っているので、腹が立ってしまったということになります。知り合いでもない亡くなった方のことを、あたかもよく知っているように話す人の話は嘘くさく思えてしまいますから、彼らの言うのは当然です。
 それに対してイエス様がおっしゃった言葉が五八節にあります。それは「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と言う言葉でした。
 たった一言「わたしはある」とおっしゃっただけなのですが、これはとても重要な言葉です。「わたしはある」という言葉は出エジプト記の三章一四節にも出てきます。それはモーセが神様と初めて出会った時、神様の名前を尋ねた際の答えです。神様が自己紹介をした時、「わたしはある」という名前だと言っている訳です。
 これはつまり、イエス様がご自分のことを「わたしはある」と言ったと言うことは、「わたしは神である」と言ってるのと同じです。これには流石にユダヤ人達は激怒してしまいました。はっきり言って、この言葉こそ、イエス様が処刑されることになるきっかけを作った言葉です。たった一言「わたしはある」と言っただけですが、これは絶対に使っていけない言葉だったのです。
 ところでこの言葉にはもう一つ意味があります。「アブラハムが生まれる前から」という言葉がついているのです。これは何を意味するのかと言いますと、イエス様は実は天地創造の昔から、神様と共におられたという意味です。神様と共にこの世界の全てをご覧になり、当然アブラハムのこともその目で見ておられましたし、アブラハムの信仰についてもご存じです。
 実はこのことはヨハネによる福音書の一番最初に書かれています。ヨハネによる福音書一章一節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。この「言」というのをイエス・キリストと読み替えると分かりやすいです。
 イエス様は最初に、神の御言として登場しました。神様が「光あれ」と言った瞬間からイエス様は誕生し、そこからずっと神様の言として様々な預言者と共にあったということです。つまり旧約聖書の時代、イエス様はずっと神様と共に人々を見ておられたと言う事になります。旧約聖書で神様が言葉を発せられた時、そこにイエス様も必ず共におられました。なんせその言葉自体がイエス様なのですから。
 そんな神の言が受肉されたことで、初めて肉体を持たれ、人の姿となったのがイエス様であるということになります。
 ですからイエス様はアブラハムのことを見ていましたし、共におられました。だからこそ、アブラハムがどんな人物であるかをはっきりと知っていたと言う事になります。
 私たちが信じるイエス・キリストは、神の言が肉体を取った存在。ならば私たちが耳を澄ませて聞いている神様の言とは、イエス様ご自身であると言うことでもあります。私たちが神様の声を聞こうとする時、イエス様もそこにおられます。
東京カルバリ教会では新共同訳聖書を用いています。
聖書箇所などはお持ちの聖書か、聖書協会のホームページをご参照ください。

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