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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship


礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇二一年 一月一七日
 「弟子の召命」 マタイによる福音書 四章一八節~二五節

 先週新年最初の役員会が行われ、その中で二つ決めたことがあります。一つは一月末から再び連続講解説教を行うと言うことです(1)。連続講解説教というのは、聖書の一つの書を順番に説教箇所とすることで、ここでも昨年までヨハネによる福音書を学んでいましたが、最近は教団の信仰日課から取っています。それをまた始めることにしました。今度はローマの信徒への手紙を学んでいく予定です。
 もう一つは、二月に予定していました証(2)を延期とさせていただくことでした。今年度の総会資料にも、礼拝に証を取り入れることを書いてありましたし、その予定でしたが、緊急事態宣言下で行うのは止めようということになりました。今の事態が終わりましたら改めて考えていきます。
 証というのは信仰を知る上で重要なものです。一人一人神様との出会いは別々ですし、信仰の形も一人一人それぞれです。人の信仰を聞くことによって、こう言う形もあるのかと思うのは、信仰生活を送る上で色々幅が出来ますから。
 一人一人信仰の形は違います。それはその人が神様とどのようにして出会って、どのように理解してきたかは一人一人異なりますから、一人一人神様の理解が違うために信仰の形は様々です。ただ間違いなく言えるのは、信仰というのは、自分が手を伸ばすことで、イエス様の手を掴むというのが重要になっていきます。
 その信仰を掴んだ人物が今日の聖書箇所に登場します。本日の聖書箇所はイエス様が最初の弟子を作るところです。
 物語としては、イエス様がガリラヤ湖畔を歩いていたところ、そこに二人の漁師がいて、彼らに声を掛けたら付いてきたというもので、最初にシモンとアンデレ、次にヤコブとヨハネ。二組の兄弟をすぐに弟子にしたというシーンになります。
 描かれているのは実にあっさりしています。最初に声を掛けたシモンとアンデレについて一九節と二〇節を見ますと、「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」と、実にあっさり描かれています。
 あまりにあっさりしすぎていて、一見これでは適当に目を付けた人に声を掛けたのかとさえ思ってしまいそうになりますね。
 もし仮にイエス様が普通の人だったとするならば、弟子選びも適当だったかもしれません。しかしイエス様の場合は全てを見通しておられる方です。つまり未来に何が起こり、彼らがどのような行いをするかも全て知っているという事です。
 一見適当に声を掛けたかのようなシモンは後にペトロという名前になり(3)、後のキリスト教の基礎を作る偉大な人物になります。それを知った上で声を掛けたと考えるならば、一見適当に見えるこの行いも、この人になら任せられると、ちゃんと選んで声を掛けたのだろうと分かります。この時間にここに行けば彼と出会えることをちゃんと知っていたからこそ、出会えたという事になりますね。
 一方シモンにとっては、これは偶然の出会いだと思ったかもしれません。なにかよく分からない人が突然声を掛けてきて、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってきました。普通の人ならそこで、この人は危ない人ではないかと思って、その発言を無視する可能性の方が高かったでしょう。しかしシモンはイエス様の話を聞いて、その場でイエス様について行くことを決めました。そういう人物だからこそ、イエス様はシモンに声を掛けられたのでしょうが、シモンの方もイエス様の言葉を受け取って、この短い時間でしっかり決心しています。このこともイエス様には分かっていたのでしょうね。
 この短いやりとりでも、シモンの方がイエス様に手を伸ばしていることが分かります。イエス様が適当に選んで引っ張っていった訳ではありません。この間にはイエス様の申し出に、シモンが応えるというやりとりがちゃんと存在します。普通だとじっくり時間を掛けて行うべき出会いと理解、信仰者としての飛び込み全部が一瞬で起こったことが描かれています。
 ここで重要なのは、手を差し伸べる順番です。最初にイエス様がシモンに声を掛け、諮問はそれを受けて応答していますが、その順番が重要です。
 イエス様との出会いというのは、常にそうなのです。イエス様の方から手を差し伸べています。私達にとって大切なのは、その手に気づくかどうかです。気づけたものは幸いです。そしてそこで自分が手を伸ばして既に伸ばされている手に捕まること。これが信仰の始まりとなります。
 一見それは逆のように思われるかもしれません。世の中は多数の価値観があり、信教の自由もありますので、人はあたかも神様を自分で選んで信じるものだと思われるかもしれません。この場合は人の方から神様に近づいていき、神様を選び取るという感覚になります。この場合は信仰においても人の方が主体と考えます。一般の人が考える信仰というのはそちらの感覚に近いのかもしれません。
 しかしキリスト教の考えではそれは全く逆です。既にイエス様は私の方に手を伸ばしておられると考えます。それは聖書を通して、あるいは礼拝を通して、私に語りかけてくださるのです。その事に気づくことが信仰の始まりと言えます。ですから、私達がイエス様を選んだのではありません。イエス様の方が私を選んでくださったのです。このことはヨハネによる福音書一五章一六節にイエス様が弟子達に対して「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」という言葉をかけているからも分かりますが、私達に対しても同じです。
 全知全能であるイエス様は、私が生まれた時から既に私自身を見ていてくださり、私がイエス様のことに気づくことを待っておられた。信仰を持つようになると、イエス様を知ったその日からイエス様と自分自身との関係が始まるのではなく、既にその前から関係が始まっていたことを知っていくものです。その関係は天の国に私達が行くまで続いていくことになります。
 最初に証のことをお話ししましたが、証というのは、ここが重要なのです。私は神様に選ばれたからここにいると言うことを語るのが証です。確かに私達は不十分で、力も弱く、神様の期待に応えられないでしょう。そんな力を持たない私を神様が選んでくださった。その事を知っていくのが信仰であり、それを語るのが証であると言えます。しばらく延期となりましたが、それがこの教会でも出来ますように。
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