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荒川区 荒川 町屋にある教会。東京カルバリ教会です。

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礼拝Worship






礼拝説教 message

東京カルバリ教会説教 笠間良牧師 二〇一八年 八月 一二日
 「石を投げる資格」 ヨハネによる福音書 八章一節〜一一節

 本日の聖書箇所は聖書では最も有名なエピソードの一つで、クリスチャンのみならず一般の人にもよく知られています。
 しかし、改めて考えてみますと、私が牧師になって二〇年近くになりますが、この部分を説教するのは今日が初めてだった気がします。有名ではありましたが、なかなか縁が無かったと言ったところですか。
 エピソード自体は大変有名なものです。
 エルサレムで人々に教えられていたイエス様の前に律法学者やファリサイ派の人たちがやってきました。彼らは一人の女性を連れてきており、その彼女が姦通の罪を犯したから、この女性をどうすれば良いのかと聞いています。
 日本では「不倫は文化だ」などと言って笑っていた芸能人もいましたが、歴史的に見るならば、昔から不義というのは重く見られ、刑罰の対象になっています。
 その中でもユダヤ教ではそういったことについて殊更厳しく当たっています。もし不義があった場合は死刑が適用されます。今日の箇所にもありますが、石打の刑にして処刑しても良いという箇所は確かに律法に書かれています。レビ記二〇章一〇節がそれです。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあります。
 不義密通で死刑というのは穏やかではありませんが、これは神の民としてのイスラエル部族にとっては大切な事でした。
 神の民だから品行方正で無ければならないというのも、一応はあるかもしれませんが、それよりも神の民であると言う事は、ちゃんとその人がアブラハムの子孫で無ければならないという家系図が重要なのです。夫婦は必ず先祖にアブラハムを持つという、由緒正しい家柄であるという証明が絶対必要で、もしそこに生まれの知れない、名の知れない者が入ってしまうと、家系図に傷がつきます。純粋な家柄が汚れてしまうことを殊更恐れるのです。純粋で無ければ神様に愛されないという恐れが垣間見えます。
 神の民として、汚れを最も嫌うユダヤ民族は、だからこそ出生のはっきりしない子どもを嫌います。家系図に載せられない人はいないのと同じ。差別される対象です。先週、生まれの地域で差別が生じると私は言いましたが、それは例えばサマリア人の地域はかつて異邦人の占領区域であり、多数の異国民の移住者によって血が混じっているからサマリアは嫌われるようになったのですし、イエス様の故郷ガリラヤは異邦人と交わりが深い地域なので、どんな血が混じってくるか分からないとされて嫌われる訳です。全ては神の民としての純潔を守ろうとするユダヤの民の考えから来ています。
 ですから不倫などが嫌われるのは単純にモラルの問題では無く、神の民として生きるために必要なものとして考えられています。もし異民族の血が混じってしまったり、家系図に汚れが生じたら子孫は呪われた存在になります。だからこそ不倫は死刑とされるのです。
 ユダヤ教における神の民という考えはそれだけ厳しいところがあります。
 それに対してイエス様のお考えはどうかといいますと、これまで語られてきたとおり、イエス様は一切人の生まれに頓着しません。重要なのは、その人の生まれではなくその人自身であるというのがイエス様の立場です。もっと言うならば、イエス様は、あらゆる人は救われる立場にあると言っています。ただそれに気づくかどうかが重要だと。
 そんな立場の違いがあります。律法学者やファリサイ派の人たちは、それでわざわざこの不義の女性をイエス様の前に連れてきたのでしょう。イエス様の返事次第では律法違反として、罪に定めることも出来ます。要するにこのエピソードはイエス様に対して張られた罠だったわけです。
 ここでイエス様がどう答えられるのかが重要です。もしここでこの女性を解放しろと言うならば、イエス様はすぐに捕まえられてしまうでしょう。逆に律法に従って処刑しろと言った場合、これまでイエス様が言ってきた事が全部否定されてしまいます。そもそも人の死を認めてしまった場合、イエス様も又人殺しとなってしまいます。
 そんな選択に迫られた際、イエス様の取った行動とは、六節の後半に書かれているとおり、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」でした。決して人を見ず、下を向いていたのです。
 何故このような格好をしたのかというと、恐らくはイエス様なりの気遣いだったと思われます。罪人とされ、さらし者にされて人々の興味本位な視線に晒されたその女性は、ここに来るまでに散々苦しめられました。これ以上無いほど苦しめられた彼女をイエス様は敢えて見ませんでした。敢えて見ないことで彼女を気遣ったのでしょう。
 そして何も語らなかったイエス様ですが、そんなイエス様に、律法学者やファリサイ派の人々は答えを募ります。さあさあ、早く答えろと言った具合でしょう。しばらく沈黙を守ってきたイエス様ですが、あんまりしつこく迫られるため、ついに口を開きました。
 その答えが七節に書かれています。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」それがイエス様の答えでした。
 イエス様に対して提示されたのは、「石を投げろ」「石を投げるな」という二つの答えでした。そしてそのどちらを答えても罠にかかるのですが、第三の答えをすることでその罠を回避したというのが面白いところで、とんちが効いた話となっています。
 ただし、この話はもう少し深いところがあります。
 イエス様が「罪を犯したことの無い者が石を投げなさい」と言った際、誰も「私は罪を犯していない」と主張していません。それは、この問いが神様に誓って行われたものだからです。心の中を探った時、罪を犯していない人というのはこの世界にはいません。勿論私も、皆さんも、誰も罪を犯さない訳は無いからです。
 例えば十戒の最後に「隣人の家を欲するな」というのがあります。他の人が持っているものを欲しいと思ったら、それが罪になるとなったら、あらゆる人は罪を犯していることになってしまいますね。
 だから神様に向かって「私は罪を犯していません」と誓える人は誰もいないと言うことになります。そしてそこにいる全員が気まずくなってしまいました。
 結果として、その言葉にそこに居合わせた人は全員帰ってしまいました。誰も彼女に石をぶつける資格が無かったからです。
 その上でイエス様は、最後に残った女性に対してわたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」とおっしゃって解放しています。
 たった一言ではありますが、これからイエス様はこの女性の全てを知った上でこの言葉を用いたのだと思われます。全てを知るイエス様は、誰も罪の無い人はいないことをよく知っておられます。
 その上で、たった一人「あなたの罪を赦します」と言えるのがイエス様なのですから。
東京カルバリ教会では新共同訳聖書を用いています。
聖書箇所などはお持ちの聖書か、聖書協会のホームページをご参照ください。

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